別府 beppu(14)2009

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10キロはなれた川沿いにきれいな散歩道ができるときいた。自然とふれあいやすくするということもあるようだが、本来の自然を破壊して長年そこにあった生態系を殺し、眼にみえぬものを無視した形で奪い人工的に居心地よくつくりかえたのにも無自覚なまま、同じ自然という言葉を容易くうたい文句にする。今の社会が大きく失いつつあるものは、そこについこのあいだまであった存在への、あるいは命への敬意である。それは記憶と忘却、あるいはみえない余白としての世界への入り口でもある。

長谷川等伯の有名な松林図屏風には、描かれたというよりは残された墨の濃淡としての木々の合間に白く浮き出る霧が印象深く示されている。しかしみていると、霧あるいは大気というみえない白い余白のなかに木々がとけ込み、その余白から木々が新たな情動のなかに動きだす。そこに記憶と忘却の連鎖を通過した言葉のない言葉が聴こえてくる。音の聴こえない音楽と言っても差し支えない。そうして本当に微かに木々の存在が再び明るみに出されてくる。こういってしまうと途端につまらなくなるが、それは息子の死を背負って描かれたのだろう、松の墨に託された亡霊だと私には映った。 周到な考慮を経た後に描かれたに違いないが、決して技術のみが描かせた絵ではない。 おそらく等伯よりも技術の高い絵師はいただろう。絵は現代の博物館の光に照らされ、ガラス越しに亡霊が亡霊を超え出て訴え出ることによって、ほのかに明るい未来へ、より広い生へと開かれている。

医学は当然であるが写真や音楽においても、それぞれの実践方法や実践領域は自ずと異なるが、こうした記憶と忘却の連鎖、生への希求そして死への敬意をいまだに欠いてはいけない。 来るべき存在様態がもはや、「命への敬意」このような古びつつあるかのような言葉の表現を単純には許さないということもあるかもしれない。しかしながら失われるもの、あるいは何らかの状況において失わざるをえないものを冒瀆するものへの抵抗は、この現在において言葉を発する行為、あるいは言葉にならない思想の結晶として行うべき重要な行為である。

今も古びた過去となる。それを生きた亡霊としていくために、朽ちた過去へとさかのぼりわずかな残存を手がかりとして、広い視野をもって現代をその都度生きなおす。それぞれが描かれていない余白をもち、余白のなかに他なるものを浸透させつつ、眼にみえない余白を動かす。それは現代を未来の微明とするために他ならない。