熊野 kumano (19) 2010

Pasted Graphic 7


(つづき 6 )

八村さんの自らに聴く音の形と時間性は、松浦氏の折口論のはじめに出てくる折口信夫の「斜聴」という概念にも類するものと思う。「折口信夫論」を目にしたとき、不意にではあるが、一区切りしたような気がする。言葉を経由せずに何かが納得されたような気配が身辺に漂い始めた。

なぜかは、はっきりとわからない。松浦さんの文章(たぶん批評に限ってだが)は妙にこれまでの経緯と符合して納得がいく。これによって言葉の膨張感が、いい意味でそろそろ私のなかで止まりつつあるのだろうか。

東京を離れて二年半、自ら選んだ道とはいえ、身辺の急激な変化についてゆく身体が様々な環境の変化の質を多方面に抱えながら、それらがひとつになっていくまでには多くの時間と労力を要した。差異と反復を重ねながら今もその過程にあるが、ここへきて私は、もう矢継ぎ早には進まぬ方がよい。かえってやっとのことで収束されてきた身体が分散していくように思う。(収束といえば昨日突然の原発の収束宣言、開いた口がふさがらない、困ったことである。)

だが、これまで考えてきたことは、身体的な器としての身の肥やしとしての意味を持つにすぎない。腐葉土の感触で身体が納得されたときのように、時間、その歴史と放り出されるべくして放り出される重なりとしての身体、その先端部にあるいまここがあるだけである。だがその密度が一つの形を呈してきたということだおろうか。

それにいくらかためておいても、行為へのきっかけの言葉は一語、あるいは一、二文くらいでしかない。常に時は流れる。そのときその場、行為は単純性に帰結するだろう。

写真や音にとって思想が邪魔になりうるが、言葉が脇に添えられることで身体の言葉としてその密度の極みとしての先端部が一つのおぼろげな境界としての意味として存することができる。境界ははっきりと前後をわけるものではなく、霧のようにおぼろげに存在をあらわす布地としてある。

行為へのきっかけとして無を一つの語句で言い換えることは自分自身への一つの身体的なけじめといってもよい。誰しもやっていることだけれど、それは同時に行為への契機でもあるので、これまでどおり象徴的な言葉を自分の内部のどこかに添えたい。

エックハルトのいうように、自己からの離脱が無であり、さらに無からの離脱が一つの言葉や音に転じるように発せられたとき、あるいはそうして写真が撮られようとしているとき、音や写真が自己をこえて何かがあらわれでる。

そこに聴き、観るものは自分にもまったく予測のつかないものであるが、生活の区切りや契機として重なりとしての自分をかけ、また放り出すことが可能であるための、時間の圧縮された言葉をまずはさがしていってもよいであろう。

たぶん結局はかなり単純なことがらになるだろうけれど、一つにまとまるというより、時間を経たのちにいま立ち止まることを要請されるような言葉、考えというものがあってはじめてできるものである反面、その考えから離脱しながらそこに表出されるものに委ねることが大切であろう。

逆にいえば考えたものをまとめて表現してもまったくおもしろくはない。言葉が身体に降り、さらにそこから離脱するとき、音や写真に何が映されるかという点が自分自身の興味を最もひく。

言葉といってもはっきりとはわからない身体、折口や松浦さんの言葉のような「言葉の身体」なのだろうか。本質をめぐっても本質など本当にはわからない、だが、少なくとも本質をめぐらないと現実に染み出してでてこないものは、はっきりとあるにちがいない。