熊野 kumano (12) 2010

Pasted Graphic 15


他なるものを感じ想像する心は、動物の慈悲ほどに尊い。釈迦尊の動物への言葉は、なんともいえず、感慨深い。なんともいえない。

先日テレビを疲労を紛らわすようについついみていたら、ある番組で紹介されていたナショナル・ジオグラフィックのシーンが心に残った。ヒヒに捕まえられ、いまから食われる子鹿の眼はすべてを悟り、動じずあまりにも澄んだ眼で死を受け入れる。ヒヒとの決戦に勝ってヒヒを食べたヒョウはヒヒのおなかの赤ん坊を見つけ、枝にのぼりかくまって慈しんだ。だが赤ん坊はその夜、凍え死んだ。哀しさのなか動物は淡々と生きる。食物連鎖や生態系(それも人間の側の言葉に過ぎないのだ)をみだりに乱す人間の欲のおこがましさ、思い上がり。カメラは冷静で冷酷にもすべてを捉える。はるか遠い未来の人間は慈悲や思いやりを世界の価値観とするだろうか。

釈迦尊のことばを少しよんでいるとこの身はどんどん小さくなって、なくなってしまいそうになる。意識が意識を凌駕するというより、意識はどんどん小さくなる。ジャコメッティの小さな歩く男はちょうどそのようにしてできたのではないか。残るのは動きつづける魂のような、それもどこか弱々しくだからこそ芯のある存在のことば。脱力の発する巨大な力のような。

いま書きたくても書けないという状態、いまそうであってもこうしてなにか書き出せば、どこかにつれていかれる。書きたいことではなく、書いて何かわかることがある。整合性はなくともそういうものの方がやはり自分にはあう。言葉の論理が身体をしばるのに長く耐えることができない。出すべき音がわからず、音がでてこない、そういう生みの苦しみも、何か音を出してみれば知覚の新しい窓が開け、苦しみが苦しみでなくなることもある。それは言葉の論理ではない。人々が苦しみから離れるためにどうすればよいか、釈迦尊が求めたのはそのことである。近代の学問は釈迦という人に適さない。いやそうではなく、堕落した学問が釈迦の言葉を覆い隠し、忘れた。

釈迦尊の言葉は澄み切っている。何とも言えない滑らかな質感の水を湛えているような。道元に何かを感じるとき、無にうずまく音から力が湧き出すように手を振りかぶって書くこともあるが、釈迦尊においてはそもそもはじめからそういうことはない。釈迦の本質は釈迦のまわりに虚構を創造したり想像したりして描こうとすることができない。だから釈迦についてついに何か言い得て妙を書くことはできない。それなら釈迦の言葉をなぞるのがよい。言葉をなぞるように書く。弾く。はかない音のもつ強さは、動物のしなやかな動きの繊細さと、眼の無垢さ、その誰をも寄せ付けないほどの美しさにたとえてもよい。だがはじめの音が定まるまでは遠い。力を抜き、意識の欲をなくすまでの時間の流れを経て、でてくる音の力の密度はます。それが音に出る。弦をなぞるように。脱力という力。

釈迦のさまざまな言葉の問いに答えられるかー だがついに、「心さらに答ふることなし(長明/方丈記)。」さらにつづいて長明のことば「ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」。方丈記の最後、舌根ということにずっとどこかでひっかかってとれない。エスキモー(いまはイヌイットといったほうがよいのか)のとある音のあり方に身体がひっかかっているように。仏教、多神教、アニミズム、遺伝子他の生物学的事象、それらの移動と混在としての日本とは、民とはどこか、なにか。全ての接点がこの身体にある。 釈迦尊もその一人に違いはない。 欲という腕力の脱力にその接点はあるだろうか。

方丈記の終わりは、長明にとっての正反合の合か、そうではない。正と反とが合わさらない言葉、身体はそもそも合を知っているのに、正と反による合のついに出ない言葉、それなのに納得される不思議な言葉が突如として最後にでてくる。心さらに答ふることなし ーただ見事という他ない。言葉の質感は言葉の導かれた過程を想像するをはるかに超えて、ますます重い。鴨長明という人は方丈記で心の内景ではなく周辺の有様を書いた。そして唯一の自問についに答えられない長明は魅力的だとおもう。

音自体の行方に正と反と合はない、舌根は音と言葉の分離するまえ、音のまえに存する元本か。舌は触覚、味覚、そして聴覚でもある。正は正のまま、負は負のまま、ともにそこにあって、たった一文でプラスマイナスから飛ぶようにゼロが出現するこの脱力のマジックはどうしてなしうるか。

意識は若いようでも身体は刻々と衰えてくる。身近なもので事たれりという、ある脱力した感じを本当に身体がもってくるときたぶん、奥底に眠っている音はその闇の静けさのなかからまるで幽霊のように出てくるだろうか。自らの脱力を次への大いなる力として。脱力させられて歪まされるのとは逆。釈迦と道元を摘みつつ、遠ざかる、その繰り返しのなかから、方丈記(や、私にとっては上田秋成の雨月でもよいのだろう)に何度も何度も近づいてみてもおもしろい。言葉の動きが示す身体に、固執するなら固執して。