筋目書き(四十一)雨月8 白峯の瓦礫

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熊野 kumano, 2012





朕が眷属のなすところ、人の福を見ては転して禍とし、世の治るを見ては乱を発さしむ。




雨月物語 白峯



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筋目書き(四十一) 雨月8 ー白峯の瓦礫ー




 「現存するものを、破壊的性格は瓦礫にしてしまうのだが、それは、瓦礫のためにではなく、その瓦礫のなかを貫いて通る道のためになす業なのだ。(W・ベンヤミン『破壊的性格』)」

 白峯においての崇徳院は、今回の引用断片に示されるようにベンヤミンのいう「破壊的性格」をもつように思われるが、同時にこれほどの予言者が他にいるだろうか。すべては崇徳院の言う通りに歴史は描かれる。
理解されることのないまま、誤解されるがまま生き、流動に生きる実存の破壊者が、同時に未来を予言しているという背理に魅かれる。崇徳院にはあらゆる場所に道がみえていて、道筋の裂け目、歴史の先端部にいつもその身体があるようにみえる。それは即興的でもありながら作為的でもあり、なおかつ予言的でもある。音を出すことにおいて、世界を破壊し汚すことの粗暴な力ではなく、その洗練された意味をここに見てとってもいいだろう。

 写真的身体もそうであるが、音楽的身体はとくにその即興的性格において、希望的観測や人間の創出欲を欠けば欠くほど、ある不思議な場のようなものがかえって創出されてくる。昨日まであった事物が無惨にも消滅したあと、その憎しみを抱えたイメージを抱くこと、あるいはそのあとに何があらわれるかと期待ばかりすることよりも、次なる何かへの期待や情のイメージを取り除きながら、それがなくなった地点、その空白のなかに身をおいて、空白の一瞬のなかに自らを放り込みながら歩むことは、重要な経験だろう。
破壊的性格のもつ欲求、新鮮な空気と自由に使える空間への欲求は、どんな憎しみよりも強い。(同書)」その空白にはそれらの空気と空間が広がっているのかもしれない。破壊の否定面ではなく肯定的側面は、憎しみによる世界への破壊的態度や、憎しみの意識的否定ではなく、憎しみ自体の破壊によってもたらされる自由にあるのかもしれない。空白の地点に立ち続けて進むことは、世界の破壊された瓦礫である音に自らのイメージや欲求の残骸を重ねることではなく、ある現象や事物が破壊されて瓦礫となるプロセスと、別な事物が破壊されて瓦礫となるプロセスのあいだを貫いている道をこうした自由において歩み続けることであり、その瓦礫を貫いている道の歩み、音と音の連なる道こそが、一つの場となってあらわれてくる。
 
 けだしこの自由という道に生きていることは、あらゆる場においてあらゆる場を形成することができて、またあらゆる場に道がみえることでもあるにちがいない。そして崇徳院の予言がすべてその通りとなる物語の歴史の展開は、憎しみと怨念からくる復讐の単純な物語的創作の実現というよりも、ベンヤミンの深い意図をふまえるなら、この未来的な「場」による予言と実現ということにあると考えたい。怨霊となった崇徳院には、怨念の情をかかえながらも、場の成り行きがすでにあらゆる時空にみえていた。どの場所においても、場の空白のなかの一瞬こそが待たれるべきものだが、次の一瞬に何が生じるのかは誰にもわからない。だからその自由に漂う身体においてこそ未来がみえる可能性がある。西行の観念的正論は崇徳院には単純には通じないだろう。崇徳院は死によって自由を得たのだろうか。

 音という瓦礫は、各々が一瞬の空白からこぼれおちるように生まれでたもの、その音の瓦礫たちは空白という時空の密度の高まりのあらわれなのであり、空白、あるいは自由という道のためにあることを心に留めておかねばならない。道元的にいえば、世界から音を紡ぐことは、「空」に立ち返り「空」の断続的な瓦礫としてのあらわれを継続することであり、その瓦礫の道を歩みながら、名指すことのできない「空」を音を媒介として場に起こすことだ。その「空」は時空を貫いている何かであるが、音がそのときそうであること、そのことによって「空」を介して未来をたぐりよせる。世界を人間の音によって破壊し創造し革新することではなく、音を出すことが一方において作為に満ちていて、たとえ世界を破壊しながら汚すことになりうるとしても、音という瓦礫のためにではなく、世界から紡がれた音の瓦礫のなかを貫く自由という道のために音を出している。そういうことが、憎しみや破壊自身をも破壊し、世界の瓦礫からなにかを救い出しながら瓦礫を貫く道を歩み、未来をたぐりよせることにつながる行為としてあるのではないかと、いまも夢想する。別様にいえば、「破壊的性格とは信頼しうるということそのものなのだ(W・ベンヤミン)」。