下呂

筋目書き(四十四)雨月11 菊花の詩(二)

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砂粒のざらつきと海水のぬめりの入り交じった暗闇に息を吐く浅蜊をながめていると人の痛しむ声が聴こえた
白地に言葉を刻み付けるように善悪をつけながら浅蜊を網に入れる指先の罪は声に揺りうごかされる気流に包まれた音の温もりに写し取られた
眼前の遠浅に無限に繰り広げられる砂下の浅蜊の多様な文様は冷たく固い装いと内面の柔らかい激しさのあやうい平衡のとれた曲線美に象られていた
青空の下で蓋を開けなければ痛みの伝わらない小さな浅蜊たちは捕獲に魅せられた狂った人間に捨てられながら泥を吐きだし泡を吹いては死を待っていた
空と海をいまにも分かとうとしながら水平線に沈みゆく太陽の切れ切れの赤い滲みにつなぎとめられ燃やされながらだれか生きている
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筋目書き(四十)雨月7 白峯の音楽

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「<言葉には拒まれているものへと至る>…言葉なきもののこの圏域が語りえぬほどに純粋な夜のなかにみずからを開示するところにのみ、言葉と心をとらえる行為とのあいだに魔術的な火花が飛び交い、そのときそこには、言葉と行為というこの同じように現実的なものの一致があります。言葉たちが最も内奥の沈黙という核のなかへ入り込んでゆく、その内部集中的な方向だけが、真の作用をもつに至ります。W・ベンヤミン『マルティン・ブーバーに書いた手紙』」白峯はまだそれとは知らされぬ西行の枕詞の、いわば言葉の遊びからはじまるが、この言葉の遊びは西行の停泊から一転して、西行の修行という行為へ、さらには西行の内部へと入っていく。西行は一転、旅の疲労を癒すためにではなく「観念修行」のために足をここにとめたのだ。その場所で西行は何の気配を感じたのか。あたりに響きわたる崇徳院の、音のない声なき声に導かれたのか。西行の観念修行の背景には、崇徳院の沈黙の声があった。西行はその沈黙の核から生じた声のあまねく音楽を感じ取って聴いたのだろう。…
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筋目書き(三十九)雨月6 白峯の声

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イメージの影は確かに短い。光の照りつける正午にものたちは最も輝いているから、象られたイメージは正午に立ちあらわれる。ガルシア・ロルカなら「午後の五時」に託された神秘。そしてイメージはからだのどこかに固着されるが最後、イメージではなくなる。イメージは去りそれに取って代わられた記憶をたどってみても、そのときにはもう戻らないし再現もできない。いまここにおいては、イメージからこぼれ落ちて定着した感覚の痕跡、その言葉の瓦礫が無惨にのこっているだけだともいえる。それでも、「過去はある秘められた牽引を伴っていて、それは過去に、救済(解放)への道を指示している。実際また、かつて在りし人々の周りにただよっていた空気のそよぎが、私たち自身にそっと触れてはいないだろうか。私たちが耳を傾ける様々な声のなかに、いまでは沈黙してしまっている声の谺が混じってはいないだろうか(W・ベンヤミン)。」…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十七)雨月4 白峯の核心

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剣に魂をさされたときに肝要なのは ー 落ち着いて眺めること、血を一滴も失わないこと、剣の冷たさを石の冷たさでもって受け入れること。突かれたことによって、また突かれた後、不死身となること。(F・カフカ) の言葉は、意味を言葉でさらに考察するよりもまえに、すぐれた写真をみているときのように身体に突き刺さってくる、剣の言葉にきこえる。このカフカのことばのような写真的身体から世界を眼差したうえで、なおかつ浄瑠璃のような言葉の音楽的揺動をもってしてこれを写し切る書き手、その指の運命が化け物の光に触れて、その恍惚の向こう側に、書き手の現の身までがぼやけてみえてくるかのようなこの場面は、強烈な光と色彩を放って読み手を魅了する。崇徳院が化鳥とともに「瞋恚のほむらのような陰火の光に照らし出されて現われる。…院の怨霊は、光を背景に、あるいは光そのものと化して姿をみせるが、この闇を破る強烈な光は、夢の終わりを告げるおだやかな朝の光ではない。世界を一瞬のうちに夢魔の世界にと変容させるおどろおどろしい光である(長島弘明著『雨月物語の世界』)」。だが一方で、書き手の眼の言葉は、幽霊を写し取る写真によってこそ定着されるような、冷徹な光の痕跡を写しているようにもみえる。そして西行はこの崇徳院の壮絶な変貌ぶりにたじろぐどころか、これを嘆きながら歌をうたう。怨霊はこれを聴いたのち、怒鳴を鎮めつつ消えてゆく。静寂の薄明のなかに朝鳥の声が浮かぶ。…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二十九)

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存在へとむかう意識を解放し存在からはなれていく。たとえばジャコメッティの極小の男、あの立像へと意識が向かっていくような音の過程とは反対に、立像に近接した地点にはじめから立って存在の骨格から意識をはなす。振り返れば男はますます小さく微かに空間に浮遊し幻影すらみえない。目標点あるいはうごく立脚点すらを失った意識はうすれていく。だが意識が遠ざかっていくほどに、男の側からではなく複数の方向からからだを包むように音が聴こえだす。闊達な脳神経をやり過ごし存在の骨格を浸さないよう気を配り、伝達通経路としての柔らかい脊髄の反応を聴きながら弾く。骨格の外側、だが脊髄の内側でもあるような空間的矛盾点を時間が裂く時空の非統一場に解放され、存在の骨髄をまわりながら骨格を離れていく身体の言葉の密度の高い呻き、だが浄化された水のように響く音が。そして音楽の終結音が外部の微かな現実の音に映しだされる、内部の音楽が外部の音へと逆転写される音の終結に立ち会うとき、あの小さな不動の男がいつのまにかふたたびあらわれている。彼はいまや現実の音によって歩きだす。この静止した小さな立像のような、浮遊しながらもはっきりとした存在の傍らで弓を弾く手を動かし始め、存在から離れることによってこれをゆさぶり立像を揺動させ、立像の動きを時空に招き入れる音楽のプロセス。そのためにあの立像の傍にいる日常を歩む日々の生地を丁寧に織っていくこと。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二十一)

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無常は無ではなく常なるものの否定でもないが即興もまた無常の形とも言えない、はたして即興における意思はどこからやってくるだろう。意思は否定の否定としての肯定ではなく想像が此岸の身体に降りた彼岸の極みにおいて情の飛沫をまき散らしては束ねほどき乱舞する心であり、音と光のない世界その否定から生ずる復活された肯定の力というより、負あるいは負の重なりそのものが条件であるような無条件の地平にそのまま生じてくる。いまここに生起するこの意思という未知の旅の出発点が心の行為へとむかう身体的動機に等しい場所であるならば、即興においてはじめて表現が成立する場所が与えられうるのかもしれない。無為や無の徹底あるいは即興に破壊と抵抗の意思を持ち込むのではなく、無条件というあらゆる条件の彼方にある地平線から駆り立てられるように意思が生じてくる、それがなぜなのかわからない余韻と余白とともに、だからこそ即興は真に自由であり続ける生命。自由。汚染された世界の自己研磨され摩擦から生まれ出ようとしている無垢は、想像力と現実の接点において生じた心と身体の火花飛び散る瞬間的な開放的時空において、苛烈な発火体の動いた行方に待ち受けているであろう静なる何者かによって連続的に支えられつつもその彼方へと向かっていく断続的行為によって磨かれる。
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筋目書き(二十)

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微音量で身体の部屋の窓のようなものを開けて、見えない外側から差し込む淡い光の変化に導かれて鳴りだす音。部屋の内側に音と光が木魂すれば、心の窓辺で光と音が揺れる。私はここにいない、土の中で土の気泡を呑んでいる。思想や浮遊した意識感覚を脱ぎ捨て自己に忠実であることもなく自己を滅せず無に向かうこともなく、ただ天の土に宿したミミズの身体と心で土に差し込んだ光を心と身体に感じるように撮られた写真には何が写されてあるだろう。自己が内側であることがそのまま外側にいることであり外側であることがそのまま内側にいることであるなら心と身体の境界である皮膚の窓は閉じない。鳥籠の中には鳥がいるが籠の窓が開け放たれているのに窓から出ようとはせず、遥か昔から鳥は森の内側であり森の外側から森のすがたかたちをながめ内外を行き来している。写されるのは鳥が幾重にも空間に重なる時の凝集、月光に一様に照らし出された林の織りなす木肌、光の密度と光の束に浮かび上がる色のモノクロームだろうか。光は時間の上で躍りながら世界を巡っている。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十九)

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道は世界から抑圧され制限された意識の抽出する何者かではなく決定されない自信のうちがわで思いがけない形で生じる、それが瞬間的で瞬発的であるからこそ深く開放的な海底の闇の明るい空間へ自他を同時に放り投げ、他者を慈悲深く待つゆるやかな時にあらわれる自己をみつめる。自信はこのもう一人の自己の出現を待つことであり、結果から正否が分かれるように生ずるものではなく身体的鍛錬や論理による自己規定の徹底でもなく持つべきものでも持つものですらもない、世界のすべてが根拠がなく確信のもてない生起であることを感じつつ権力と強力な自己決定、この見知らぬ顔をしながら忍び寄る謂れなき暴力からのがれるように時空の非対称なゆらぎに智慧と観察と空しき心と即興的身体を混在させ髪をむしりながらも何かを覚悟してゆくプロセス、自らを足場にいまここの定めを脱ぎ捨てる意思の言葉、自信こそ希望への道標である。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十八)

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質量なき無限の素粒子で満たされているにちがいないこの世界に生じているあらゆる声は、いまここにあらわれては物質を透過し消え去る波、音の余白に密着する身体の影。心は意識できず身体の影のようにあってつかみどころなく声とともに動く。輪郭をもたない陰影、白い微光を余韻に浮き立たせる声の言葉は、意識の表象ではなく心そのものから生まれる。耳で聴くのではなく音楽に身体そのものがかき乱された心の余白その虚空に再び開かれながら死の明るさに映されては消えていく、語りが呟かれたかのごとく死から生まれてきたかのような声の言葉に立ち会うそのとき、現にいまだ遺されている身体その重さから解き放たれつつある重さのない心が世界に浮遊しながら言葉の波動をただ響かせ、その残響が鏡となって微光の反射に呼び覚まされた私はいつの間にか何かを書いている。若冲の描いた残月の仄かな光明に照らし出された竹の葉の不規則な逆三角形の影が死者の心の風にゆさぶられて動くそのとき、絵に死者の音楽を聴く眼は心のほか何者でもなく、私に心はなく心は私ではない。身体が私ではない心息を吐く行為、言葉が声であり声が心である音のない音楽。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十七)

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遠近法や面を区切るものとしての線からのがれ、墨の筆線と余白の面の境界をじっとみつめる。次第に浮き立ってくる淡白い存在を眼に宿しながら転じ、線が余白から動き線に余白が囲まれれば面があらわれ、面の縁を再びながめてみれば線ははじめとちがった次元にみえてくる。静止した白と動的な墨の境界に浮き立つ亡霊に魅せられるように、線と面、動と静、時間と空間の相互浸透に自我が溶け出せば孤独は断ち切られる。表現で痛みを示すかわりに、痛みを時空に滲ませ交感し、交換しながら孤独同士を隙間に緩衝させるあり方。一つの音を聴き続ければ音は音でなくなる。音と沈黙の輪郭を息が描いているなら、音の線が音とその余韻、さらにその境界にあらわれながら漂う息の音楽は、音の力とは無関係に緊張を保ちながら、過剰な情を和らげる。吐息は時空の圧縮された生命線。音の線が霊を呼び起こすなら、音の余白は霊を鎮めるのかもしれない。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十六)

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気が集結すれば作用点から自ずと生じて動きが生まれる、そのように身体が楽器に作用すれば音は磨かれる。音が腕の重みの作用に対する反作用であるなら、聴くことは音の作用に委ねた身体の反作用、同時に両者は両者の作用であり反作用でもある。弓を梃として弦にこすれる手はこの交点にあり、この場所を信ずるところに道が生ずる。道は時空を隔てて細くつながり、音に道が示され道に音が導かれながら弓が弦をうごく。道に残された痕跡が音、その痕跡もやがて気の流れのうちに消え去る。物質は偶発的な確率的痕跡ではなく、あらわれては消える気のすがたかたち。物質でありまた波である光も気のように姿を消す。山は石を生み、水は岩を転がす。音は古代より水に磨かれてきた小石の息。手は音を吐く。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十五)

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良寛の消息「自然」をみながら弾く。有時において時は去来ではなく間断がない存在自体とされる。五度はなれた二音を弓の持続に託して和音の果てにある僅かな音の振動と揺らぎを聴き続ける。ここにおいて和音は与えられた調和ではなく身体的調律を迎え入れる空間的契機であり、筆の行方を音でなぞるよりも自然、この二文字のすべてを空間に一挙にみる、そのなかに聴かれる音によって心身は透過させられる。雨風に竹の揺れる夜、音が音のなかに消え去るとき空間に音の色彩がみえだす。自然に弦を抑える手が僅かに震え、響きが響きをこえる。情が響きだせば音は止むことなく音色も変化するが、空間が音色の時の入れ篭となって時間が空間のなかに存在しだす。細やかな身体の規律とともに存在へのおののきが音の両極に等しくあらわれるそのとき、時間は去来する相を超え出て自己が自己に去来しながら時のなかに徐々に溶けだしてゆく。自己は時間、時間は存在、存在がまた自己であるという自然。
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筋目書き(十四)

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写真にはみていた現実の相と、みていなかった相が同時に存在する。世界の言葉が自分の言葉ではないその僅かな差異の隙間にこそ、相や非相をこえた世界の表現が与えられる場所がある、そのことを写真は示す。写真は音楽のように一つの身体的言語の場であるともいえるだろう。言葉にならなかった溶け落ちる現実の水に濡れた艶やかな泥の痕跡を凝視するとき、写真に写された相はみえない非相をあぶりだし、その双方を参徹しながらみることによって世界の言葉がこの目の網膜に写しだされる。目が世界の光を捉える眼となるとき、眼は世界の言葉をみる目となる。調律されたピアノの和音の響きを注意してきけば音の僅かな差異とゆらぎが深くききとられてくる、その場所に耳が広くひらかれることを通じて世界のつぶやきがはじめてきこえだしてくる。音のなかにこそ音ではない世界の発音と発語がきこえてくるように、写真は言葉にならない言葉、 意識にならない意識を微かな頼りとして現実へむけた目を眼にひらかせる装置、ひらかれた眼の言葉が現実をとらえなおす行為、同時に言葉が眼の内側で再び目へと退歩することによって、眼の言葉の余白に世界の言葉の出現をみるプロセス。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十三)

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音質を求めてテールピースという楽器の一部分をやすりで削ってニスを塗りかえす。黒と黄金色をまだらに塗る。削った木目の凹凸にそって黒がしみ込んで筆が一瞬止まる。そのとき迷う筆からはなれ、手で直接木目にニスをぬりこむと、削った時はみえなかった微妙な凹凸が色にのって突如浮かび上がる。迷いのなかに悟りがある、悟りは行為の過程に生ずる迷いがなければあらわれない。目覚めは結果でも目的でもなく、迷いのあいだにある、脱力したとき、そのときもう言葉のうちにはない時間のなかにただよっている。意識の追いつかない広く開けた空が、楽器の変化したいまはきこえない音のなかにみえだす。音質は外側から測れないが、求める過程のうちに迷いからのがれて不意に聴こえだしてくる。この音は弾くまえから聴き取られている、音は現実にあらわになるのを待っている。楽器を弾きだすというのは、あらかじめ生じた音を現実に返すことでもある。楽器をいたわるのは、未来の音を楽器の空洞、その空のなかに聴くこと。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十二)

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竹の葉が風にうごき、光が葉に映るのをみながらうっすら眼を閉じる、耳が澄まされる、草や鳥の囁きの変化がより微細に聴こえてくる。竹は風にしなると隙間に空気が溜まるようにうごく。竹同士は葉が掠れても幹はぶつかることなく、風に吹かれるまま螺旋状に少しずつ塊をなして退け合わず自然にまわるのがぼんやりみえてくる。意識がふってわいてあらわれ、留めるにせよ留めないにせよ、たちまわって溜まりをつくっては言葉は素早く消えていく。何かを見いだそうというのでもないのに心の細部にわいてくる何か。世界を対象化する限定からはずれた場所に呼びだされ、その余白に自己があらわれる。外部にも内部にもある何か、それは内部にも外部にもない空だろうか。動く竹の囲う隙間が象る背後にみえてくるそらのようにこの手はそれをつかめない。竹が風にしなるとき音は空に近い場所から降りてくる。写真は竹の実在とぶれた風、その背後にぼけた空を写す。言葉で音は聴けない、言葉で写真は撮れない、言葉は空を知らない。心は、空の経験の明るい余白に瞬く間に深くあらわれてくる。心は、風に吹かれる竹の隙間に広がる空に遥か遠く映されてある。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十一)

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音楽は、私を通じた自然が密やかにあらわれた音の軌跡、主客の滅する船のうえ、風にふかれ河をこいで、自他が動いて交わる空間を多様にひらきながら、いまここに時があらわれては一回ごとに異なる目覚めをもたらしうるプロセス。音楽という形を繰り返しているうちに、一回の音のあらわれ自体が一つのリズムとなり、時間と空間がその余韻において切り結ばれる。わずかではあるが多様な、ずれの生じた滲みのなかに、人と人がつながる場に開けた空間が見え隠れしては去り、姿をかえながらまたどこかでよみがえる。気の飛び散った余白に、突如として目覚めをもたらす。音楽は世界が瞬く束の間。世界を切り取る発火体。花火に残る煙は、空中を風に揺らいで散在しながら姿を消していく。音もなく散る煙は世界の影。一回の演奏は一枚の写真。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十)

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ここを離脱した場にいた、だがいま、たしかに時のなかにいた。そうやって音楽はただただあらわれては消えていく。だがその時間は歪んだ空間のあらわれであり、鬼や死者の出現しうる場といえるかもしれない。時間が滅したとき鬼は去るが、鬼を出現させようと目論めば鬼はでてこない。音楽は何のためにあるかと問うよりも、それ自身が何者であるかという答えのない問いの断続的な動きそのものである故に、音楽自身がいまここに生きていられる。人間と似てその儚さゆえに、いまここに多様にあらわれる存在である音楽は鬼をまねく。この音楽の時間は、水平的で歴史的な連続性のうちにあるのではなく、あらわれては消え去る垂直の重なりのなかで断続的、断片的に生じる。ここに音楽の写真的断面をみる。ふと聴けば死者がやってくる。眼に飛び込む遺影は死者をよみがえらせる。言葉を断ち切れば祈りのなかにいる。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(九)

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音楽が時の動きのうちがわに本当にあってすすむと、演奏の前と後では必然的に状態が異なっている。夢のようにあらわれた演奏後の静寂は、行われた演奏を過去に向かって観想する静止した空間ともとらえられるかもしれない。動く音の静止した余白に再び時間を照らすための空間、鏡としての空間が静寂のなかにあらわれる。鏡は演奏を鋳型としこれを鋳ることによって演奏が像として残る。この静止した像に跳ね返るように音の身体的経験が再び現実にかえされてくる。そして音楽において演奏 という行為がなければ鏡があらわれようとしない、そうであるなら、演奏するという動的な問いは、いかに静的な鏡の出現をもたらしうるかという問いに向かっているともいえるだろう。余韻にあらわれる余白、たちあらわれた静の鏡としての空間がそのまま動の像としての時間を切り結ぶことによって、演奏とは別の、その余白に過去の忘れていた何かがたちあらわれるように未来が切り開かれる。世界をファインダーでのぞいて撮られたフィルムを透かしみて、さらに静止したプリント写真をみる重層経験と似ている。瞬間が空間を要請し、空間の密度がこの圧縮された時間を際立たせ、さらに次なる時間の発火点として働く。歩きながら出会い偶然をつかみとる瞬間、シャッターを押す意思のプロセスが未来をたぐりよせる。時を経て過去へたなびく視覚の煙が未来を切り開く。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(八)

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人間はあらゆる存在の働きによって生きて死んでゆく。人は死の呼びかけへの応答、躓きながらあるく痕跡を世界に残しながら、死への抵抗として、死とともに生はある。生活に息づく日々の素朴な反復に生ずる微かな差異に、僅かな他者と死の到来に、一筋の輝きを得ながら生きる。音楽は死を他者とし、写真は世界を他者とし、医は人間を他者とし、身体の絶え間なきこの応答が生活の営みである。時空は日々の軸であり踏みながら動くための次元、音や写真はこの時空を足がかりに、頼りない知覚の痕跡や身体のはっきりしない記憶を通じて、だが確かに人がまだ生きている生活の場所を、死や他者のあらわれる覚めた夢のうちにつなぐ。医は愚直で俗ではあるがそれだからこそ聖なるこの生活の場に、人がありのまま変化に保たれるための行い、老子の「微明」それは無為の為、死に絶え間なく対峙し続けながら生きるための簡素で必要な行い。技術や思想は生や死のあり方に正に負に加担しても、生死そのものには決して及ばない。生死の尊厳は生活のなかに、はるか昔から忍びこんでいる。
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筋目書き(七)

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他者との関わりのなかで、不意な出来事から自史やそれを形作る行為のすべてが崩れ去っていくとき、いまここに結実しているかにみえていたものがあっという間 に予兆なく消え去る。そこにあらわれる現実は、否定や肯定と反省の倫理によって、また悲しみの感情のなかに癒されるように片が付くものでもなく、身体の底の方からやってくるどうしようもない恍惚と不快感をともなった絶望と生死の葛藤そのものである。しかしそのときそこにはじめて、もう一人の自分の存在が新しくみいだされ自覚されてくる可能性がひらかれてある。自分があたかも死に立ち会っているかのような謎めいた何かがはじめて聴かれる。この恍惚の場所に段々とあらわれ、失敗や挫折の経験のなかにこそひらかれる生の感覚、自らを生きなおすための力が身体の奥底からやってくるのを感じているのである。決して定まらず、容赦ない変化に翻弄されていく現実は必然的に失敗を抱え込んでいる。それでもいつかそれと気づかないうちに、失敗から、死のような場所から、それだからいっそう自己を超えた発見と身体の知恵が、古い皮膚が剥げ落ち、皮の下に張る皮膚に象徴されるかのごとく蘇生されてくる内部の身体が、ここにあらわれてくる。失敗によってしぼられ、生き治される身体。私が私として死ぬことのできないというような不死の存在様式が遍く未来に広がっているのではない。世界は変わったが、得体の知れない不気味さが到来したのではなく、世界の現実が厳然として牙を剥いた今、再び目を覚ますときがきている。死を死ぬことによって私と離れたもう一つの私があらわれ、生を違う方角からみつめて新たな時間を個々がつくりながら、関わりのなかで失敗を生きていく。
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筋目書き(六)

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日々の起伏をともないながら、からだの調子や感じ方一つで世界は日々刻々と変わる。生きている理由も本当にはみつけられないまま、それでも頼りないこの生にいくばくかの魅力を感じられるうちは、心と身体は思考とは少し別なところで勝手に先をうごいていく。朝めざめる身体の変化するときのように、思ったときその思いはもうそこにはなく、そして考えはただあとから生じた事象についてゆく。臨機応変に人間が人間であろうとする個々の判断や行為も、世界に対してできうる限り賢明であろうとする動きの一つ一つの過程にすぎず、それ自体は大げさなものではあり得ないが、目立たず、微かで、一見うごきが遅く、他を威圧しないような情のなかに、人間の目覚めを呼び覚ます力が働いている。静と動はゼロと無限がそうであるように、対立するものではなく、お互いがお互いを直に聴き取り見つめ発見しあっている。また生と死のように。存在が有限である人間は、この世界で微小であることによってしか無限に近づき、無限を感ずることはできない。その無限も数なのではなく、個々の存在の質の極まった「一」であり、いずれ過ぎ去る人類史も一つのはかない存在の影にすぎないが、翻って「一」はどの微小の個体をもただ一つのかけがえのない存在たらしめていることに、もはや疑いはない。
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筋目書き(五)

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寒い冬の山にかかる霧の風景を背にして、川に浮かぶ船のな かで眠る夢をみながら眠っていた。山を冷たく覆い隠す霧はあたたかかった。夢のなかでも寝ていたので、そういう場所にいるとおもうのが不思議だったが、よ く思い出せば、風景はどこかにみえていた。たとえば技術革新の夢というような夢とは異なって、音が 夢を現実に押し出してくるプロセスのなかにあるときには、いわば荘子の「胡蝶の夢」のなかに心と身体がある。音楽することは、出した音を聴くことを機軸と して、外側のすべてに支えられながら、存在が現実を照らし出す光を、弾いている手の感触を通じて心がつなぎとめ、身体の内側に光を保ちつづける行為であ り、音が消えてなくなっても音の光が内側に芽生えはじめている、そのとき無音は観念なのではなく、身体がもはや楽器を介さずに聴こえない音の夢をみてい る。この無音に聴かれるものは、身体の内部の形にならない生命の乱れのようでもあり、自律しながら規律された波の動きのようでもある。音楽の過程は無音か ら無音へと、どこかの夢にどこかの夢をつたえる覚めた動きである。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(四)

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光は物を通じて影をうむ。光なしに影はなく、影なしに光はみえてこない。光の集積が底流している現実には、それだけ影がある。物質によって光にも影にも濃淡があるから、より世界は複雑となって、とどのつまり水に映る円い月のようにものとものの区別はなくなるかのごとく、全てがみえてくる。写真は光の痕跡、現実の影(あるいはネガ)であり、光が物質の動きを惹起しながら写真に何かをうつしだす。物質を介して影を聴きながら光をみる行為である写真は発見をもたらすが、発見は偶然の出会いから生ずる賜物であるといえる一方で、物質が光と影を宿しながら動いた必然的な軌跡がその姿をみせた一断面ともいえる。光と影の対立やその一方から他方をみるのではなく、光と影とが物質を介して分離しながらも混在している一瞬を記録する写真は、偶然と必然の接点にも位置する。こうして写真は光と影の接点である物質の、偶然と必然の接点に生じる運動を内包している。この物質のふるまい、運動の力によって、写真というネガが人間の感覚を通じて現 実へと再現像され、さしもどされるとき、写真に身体的な意味が生ずる。物質に情が宿る、情が物質にのりうつると知るのは、そのときである。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三)

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写実が真実を引き寄せるのは、人間が有機体として生きていることの背景に、無機質なものの動きを感じるときである。人間の理想と苦しみさえもが現実を写し取ることのなかに投機されるのは、人間の無機的な物質性によってこそ、経験という無垢なる生の出来事が生じるためである。心はその影であり、心が時空を一時つなぎとめる。世界を写実するとき(写真を撮るとき、あるいは音を聴くとき)同時に自らの心の動きに従うことは、もののふるまい、ものの内なる歴史を経験することに他ならない。無機的なるものへの祈りであり、ひいては人間であることへの祈りなのだ。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二)

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情は飛び、生き動きながら住処をかえる。情を感ずるために(あるいはその怨念を逃れるために)自己を離脱して空けようとするそのとき、書いていることや思っていることは概念たりえないどころか、書いたとき思ったときはもうすでに彼方へと飛び散っている。あらわれては消えていく瞬きのように、あるときは速くあるときは滞留しながら、情の飛沫が時空を飛び散っては身体に停泊する。残された言葉は、すでに情の宿主たる身体をはるかにこえている。書かれた言葉が情そのものを示しているのではなく(あるいは言葉に綴られることを情がゆるさず)、言葉の余白にこそ情の厚く切なる声が聴こえてくる。詩の言葉というものは、容易に何かに編み込まれるのを拒む場所をその永遠の住処としなければならないのか。詩の裏に潜む行き場のない情が、さらに考えるよう、それも無制限に強いてくるのである。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(一)

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ここに言う「悟り」は「音」にいいかえられるかもしれない。「音とはひとすじに、音の力のみにたすけられて働きだす。」自らの音(悟り)にかき乱された心が、次第に音(悟り)の沈黙へとかえるとき、無心になることがある。無名性のなかに自己をおこうとせずとも、さまざまな情も迷いのすえに、やがて等しく無に帰するときがくる。情は自己を離れ、風となって時をただよう。そのときはじめて迷いのない身体の芯がうまれるのかもしれない。世界が一変しても世界は現 にあり続けるという苦しみ、赦されざることを何かに導かれて(それも自らの意図に反するように)赦していくという背理に生きる言葉。自己の赦しをもって自己を現実のなかに離脱し、何かが創造されていくプロセス。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(序)

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言葉によって行為することとは、私にとってどういうことだろうか。年末に高野山の宿坊を訪れ、冷たく張りつめた早朝の空気のなか僧侶の読経を聴いて、この素朴な問いのなかで年越しをした。それから何かがじっとして停滞している。


震災で亡くなった家族の写真が、流されても埋もれたがれきのなかから人の情の手や祈りによって家族のもとへとやってくる。津波に残された一本の木は、すべてのなぎ倒された木々を背負って立っている。

あらゆる過去の出来事は消すことができない。つくられず、語られもしなかった歴史は、行為する身体として生き続ける。過去は不意に姿をあらわす、いまを待ち望んでいる。

自分史の余白に浮かぶ他者の言葉を、私を通じた主情によせる。時がたって、この主情が離れていくときやってくる他者の言葉をふたたび白紙に綴る。文脈を剝ぎ取られた断簡零墨は、私のなかの遠い記憶かもしれないし、そとの世界や過去からもたらされる教えかもしれない。

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