筋目書き

筋目書き(四十六)雨月13 菊花の詩(四)

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くさびらない邪熱の土
ミモザの枝はのびる
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筋目書き(四十五)雨月12 菊花の詩(三)

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軽薄の人
空の波にのって
すだれにくっつく
吊り輪のひもが切れて
虹は降ってきた
艶やかな肌に
濾過される音

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筋目書き(四十四)雨月11 菊花の詩(二)

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砂粒のざらつきと海水のぬめりの入り交じった暗闇に息を吐く浅蜊をながめていると人の痛しむ声が聴こえた
白地に言葉を刻み付けるように善悪をつけながら浅蜊を網に入れる指先の罪は声に揺りうごかされる気流に包まれた音の温もりに写し取られた
眼前の遠浅に無限に繰り広げられる砂下の浅蜊の多様な文様は冷たく固い装いと内面の柔らかい激しさのあやうい平衡のとれた曲線美に象られていた
青空の下で蓋を開けなければ痛みの伝わらない小さな浅蜊たちは捕獲に魅せられた狂った人間に捨てられながら泥を吐きだし泡を吹いては死を待っていた
空と海をいまにも分かとうとしながら水平線に沈みゆく太陽の切れ切れの赤い滲みにつなぎとめられ燃やされながらだれか生きている
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筋目書き(四十三)雨月10 菊花の詩(一)

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青々たる春の柳
の影花に

逆立つ産毛
一つ一つ
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筋目書き(四十二)雨月9 白峯の幻

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「目ざめているあいだに紡ぐ思いを眠りの幻のなかにまで紡ぎ込むのは控えよう。ー17世紀イギリスの医師トマス・ブラウンの言葉、ゼーバルト『土星の環』よりー」時間が自らの内部経験の基体であって、ことのはじまり、はじめに人間が引きつけられるのは常に、世界の異形、異常であって神秘であるということに、いま目覚めていなければならない。白峯のこの最後の言葉に象徴されるように、白峯という完膚なきまでに構築的な世界も、そのはじまりの創造は世界の異常面から端を発し、その終わりも狂気への畏れでむすばれている。個々に流れる時間は空間のような境界をもって区切られるように支配されることは容易にはできないのだろうし、様々なコントラバス音楽を聴いていて音楽がまだ全くもって死に切ってはいないと感ずることからもわかるように、世界の幻、この時間的狂気を、区切られた仮想空間によって凌駕し否定し切ることは決してできないだろうが、いま同じ悪夢が繰り返されないための目覚めは、個々において少なくとも感じ取られなければいけないだろう。…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(四十一)雨月8 白峯の瓦礫

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「現存するものを、破壊的性格は瓦礫にしてしまうのだが、それは、瓦礫のためにではなく、その瓦礫のなかを貫いて通る道のためになす業なのだ。(W・ベンヤミン『破壊的性格』)」白峯においての崇徳院は、今回の引用断片に示されるようにベンヤミンのいう「破壊的性格」をもつように思われるが、同時にこれほどの予言者が他にいるだろうか。すべては崇徳院の言う通りに歴史は描かれる。理解されることのないまま、誤解されるがまま生き、流動に生きる実存の破壊者が、同時に未来を予言しているという背理に魅かれる。崇徳院にはあらゆる場所に道がみえていて、道筋の裂け目、歴史の先端部にいつもその身体があるようにみえる。それは即興的でもありながら作為的でもあり、なおかつ予言的でもある。音を出すことにおいて、世界を破壊し汚すことの粗暴な力ではなく、その洗練された意味をここに見てとってもいいだろう。…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(四十)雨月7 白峯の音楽

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「<言葉には拒まれているものへと至る>…言葉なきもののこの圏域が語りえぬほどに純粋な夜のなかにみずからを開示するところにのみ、言葉と心をとらえる行為とのあいだに魔術的な火花が飛び交い、そのときそこには、言葉と行為というこの同じように現実的なものの一致があります。言葉たちが最も内奥の沈黙という核のなかへ入り込んでゆく、その内部集中的な方向だけが、真の作用をもつに至ります。W・ベンヤミン『マルティン・ブーバーに書いた手紙』」白峯はまだそれとは知らされぬ西行の枕詞の、いわば言葉の遊びからはじまるが、この言葉の遊びは西行の停泊から一転して、西行の修行という行為へ、さらには西行の内部へと入っていく。西行は一転、旅の疲労を癒すためにではなく「観念修行」のために足をここにとめたのだ。その場所で西行は何の気配を感じたのか。あたりに響きわたる崇徳院の、音のない声なき声に導かれたのか。西行の観念修行の背景には、崇徳院の沈黙の声があった。西行はその沈黙の核から生じた声のあまねく音楽を感じ取って聴いたのだろう。…
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筋目書き(三十九)雨月6 白峯の声

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イメージの影は確かに短い。光の照りつける正午にものたちは最も輝いているから、象られたイメージは正午に立ちあらわれる。ガルシア・ロルカなら「午後の五時」に託された神秘。そしてイメージはからだのどこかに固着されるが最後、イメージではなくなる。イメージは去りそれに取って代わられた記憶をたどってみても、そのときにはもう戻らないし再現もできない。いまここにおいては、イメージからこぼれ落ちて定着した感覚の痕跡、その言葉の瓦礫が無惨にのこっているだけだともいえる。それでも、「過去はある秘められた牽引を伴っていて、それは過去に、救済(解放)への道を指示している。実際また、かつて在りし人々の周りにただよっていた空気のそよぎが、私たち自身にそっと触れてはいないだろうか。私たちが耳を傾ける様々な声のなかに、いまでは沈黙してしまっている声の谺が混じってはいないだろうか(W・ベンヤミン)。」…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十八)雨月5 白峯の影

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身体の影で身体を支えている白峯。熊野の沈黙と風の告示は、写真と音楽の脇道に映され響きだすものに、それらの古道の光と音が見え隠れする白峯の影としてある。いまここで、その白峯の影を通過しながら旅をしている。何かの影を通過しているとき、そのとき通過しているというそのことと、まわりの光と音が目覚めのなかに開かれて感じられて、変化していくだけだ。ベンヤミンならパサージュであり、追想と目覚めの弁証法だろう。「夢の迅速さと強度[内的集中性]をもって心のなかで、在ったものを初めから終わりまで味わいつくす[くぐり抜ける]こと、その目的は、そのようにして現在を覚醒している世界として経験することであって、結局のところあらゆる夢は覚醒している世界に関わるのだ(W・ベンヤミン)」。雨月にひっかかり、ここにみちびかれて、「白峯」という行為にみえてきたのは、おおよそこのことだろう。これを方法とはいえないが、ある動きの方向をなしている。…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十七)雨月4 白峯の核心

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剣に魂をさされたときに肝要なのは ー 落ち着いて眺めること、血を一滴も失わないこと、剣の冷たさを石の冷たさでもって受け入れること。突かれたことによって、また突かれた後、不死身となること。(F・カフカ) の言葉は、意味を言葉でさらに考察するよりもまえに、すぐれた写真をみているときのように身体に突き刺さってくる、剣の言葉にきこえる。このカフカのことばのような写真的身体から世界を眼差したうえで、なおかつ浄瑠璃のような言葉の音楽的揺動をもってしてこれを写し切る書き手、その指の運命が化け物の光に触れて、その恍惚の向こう側に、書き手の現の身までがぼやけてみえてくるかのようなこの場面は、強烈な光と色彩を放って読み手を魅了する。崇徳院が化鳥とともに「瞋恚のほむらのような陰火の光に照らし出されて現われる。…院の怨霊は、光を背景に、あるいは光そのものと化して姿をみせるが、この闇を破る強烈な光は、夢の終わりを告げるおだやかな朝の光ではない。世界を一瞬のうちに夢魔の世界にと変容させるおどろおどろしい光である(長島弘明著『雨月物語の世界』)」。だが一方で、書き手の眼の言葉は、幽霊を写し取る写真によってこそ定着されるような、冷徹な光の痕跡を写しているようにもみえる。そして西行はこの崇徳院の壮絶な変貌ぶりにたじろぐどころか、これを嘆きながら歌をうたう。怨霊はこれを聴いたのち、怒鳴を鎮めつつ消えてゆく。静寂の薄明のなかに朝鳥の声が浮かぶ。…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十六)雨月3 白峯の夢

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墓の前での西行の歌によって崇徳院の怨霊が登場し、場面は夢の音楽のなかにいるような両者の対話へと突入する。歌に始まる夢の音楽は、生者の思考を連れ去り、魂を運び、死者の思いをこの命に与える。 「記憶を喪った現在と、だれの理性にももはや捉えられぬ未来を前に、私たちはいずれ生を終えるのだろう、せめてあと少し留まりたいとも、たまには戻ってこられればと思うことなく(W・G・ゼーバルト『カンポ・サント(聖苑)』)」。ヴァルター・ベンヤミンは言う。「ある日、魂たちは絶望へと目覚める。これが、すなわち、日記の生まれる日である」 。またこうもー「幽霊的なもののなかには、生命を生み出すすべての形式が、存在形式としてあらかじめ形成されている」。…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十五)雨月2 白峯の現

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雨月の音を、夢と現のあいだにみて弾いてみながらおもうのは、時代的に近しい精神的故郷である江戸の音楽で主立った楽しみ方は、おそらく間と音色だっただろうということだ。捨てられた故郷へと、それもありありともどるような感じ。子供がうたっていた一つの民謡の単純な旋律を弾いてから、次第にコントラバスの一本の解放弦にある複雑な倍音の音色へこの旋律を照らし出すと、はじめの旋律は、音色のみが鏡となった差異と反復によって、無限な形で心に響きだした。音の具体は心の空と表裏をなしている。雨月のあとに対照的に書かれた「春雨物語」において秋成は此岸に集中し、あの世を否定して仏教には手厳しいというが、これらの音は雨月の此岸と彼岸の円環する音楽への手がかりかもしれない。律動は生活の支えで、旋律はまだみつからない性をうたい、音楽にはじめも終わりもなく構造はいまのところないにひとしい。構造を借りた旋律の変奏や荒々しい情念の息の吐露による緊張の持続ではなく、音色の変相を鏡とする心象が自在に変わりながら、各々の性をみつめさせ、間のもたらす断続的緊張のなかに息をついてゆく音楽が、ながれながらも止まっていまここにある。空は方法によっては容易に達成されない彼岸で、此岸の方法や欲によってではなく、そこにそうあることによって、そこになかったものが思いがけずあらわれることといえる。一方で、「白峯」において西行の呼び出した崇徳院は空の具体だろうが、空そのものを描くのではなくて、空の具体を描くという此岸の水準が確かにあって、そこには具体的な方法もあるだろう。空は写真にも音楽にもあらわれうるが、この水準における方法は、写真ではなくて音楽がふさわしいと知る。…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十四)雨月1 雨月への旅

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大晦日に訪れた熊野古道での静寂とどこからともなくふかれる風、葉の擦れる掠れた音は音の抽象への入り口ではなく音からもたらされる身体への具体的な響き、肌への触覚だった。演奏することの具体性は確固としてある。写真がそこにある何かを写すように、存在の具体を経なければ音はやはり浮わついているように感ずるし、音は一見抽象的であるようでも、思想や観念を常に逸脱するいまを生きているそのことのあらわれ、極めて具体的なものごとでもある。一方の輪をまわしても、もう一つの場所に眼をやらなければ音をまともに弾くことはできない。写真はおそらくその具体というものの肌触りに限りなく近いということもできるが、だからこそ写真の抽象論も必要になる。写真の具象世界と抽象的把握は写真の宿命であり、写真の矛盾ではないだろう。それにしても写真論も音楽論も抽象的存在論はこの日本の現状にいたってむなしい。道元的な悟りのように「何か」というしかないかけがえのない一瞬がある一方で、同じく「何か」としか言い様のない、だが決してなにもないという抽象ではないなにかある具象、生の具体的時間とは何だろうか。モノがカタル身体性とはどういうことか。…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十三)

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音という門、光という門は今ここの虚空にある、だから空を打つように弾く、空を打つように撮るとき、打つ対象が同時に打たれている自己でもあるならば、生じた音と写真は自己でもなく対象化された世界でもなく自己と世界の差異のなかにすらない響きの真っただなかに立っている。権力の挙動と自他の関係性の硬直化からのがれつづけ何かと何かのあいだの相対的差異すら実体化することがない、そのことのうちに自生してくる境界の膜面、うごく音の内部の静的世界、とまった写真の内部の動的世界において、生の内側が死である浮世に漂泊しながら膜の前後に発現する音は虚空からの教え、膜の物質へ定着した光は空から生じた存在の痕跡であり、それらは絶対的無名の徴であり絶対的善への瞬間的起点でさえあるかもしれない。音楽と写真は、私という名の虚空が音と光の門をたたくことによってこそあらわれだし、はっきりと姿が見えず音の聴こえない虚空をこそ打ちつづける高密な身体のはたらきのなかに生じた現の微かな色であり、それが同時に虚空そのものの密かなる現への兆候と現出でもあるならば、世俗の王に敬礼しまた抗しまた世捨て人として現をわたるよりも、あらゆる法と境界をじわり超えだし記憶の底から蘇るようにしみわたってくる音の現への響きのなかで苦行を楽しみ、内部が外部であり外部が内部である写された世界の再現しているいまここに立ちつづけ、何かが何かに結ばれる何かを信じながら自発的行為が自発的に形成する門をたたく場に目覚め、暗い世界のどこかにいまも綿々とただよっている虚空の声を能う限り鋭敏に聴きとりつづける行為が、現の未来への橋となり詩をかたり歌を呼ぶ緒の眼であるのだ。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十二)

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張りつめた冷たい空気に立ち、無限数の雪の粒が微風の乱舞に身をまかせて竹の葉に落ちるのをみる。各々の雪も落ちて合わされば個々のかけがえのない形の跡形さえなくなるこの現世の無常のなかに、雪の一粒一粒の声そのアニマのすべてを一挙に感受しようとする心のはたらき、粒子に仮託された光の痕跡の無数の束を同時に捉えるかのような心の眼が生じてくる。雪の儚さへの意識のとらわれが一つの契機となって個々の有限な雪の融解と次々と舞う雪の運動を静観しながら心は雪と言う名の無名となり、心となった小さな私が雪に潜む無限そのものを密やかに聴いている。夜の暗い闇のなかに灯された光に反射するように踊り散らつく白い雪に照らしだされ、降りつもった雪にしなる竹が何の前触れや規則もなく一瞬にして雪を空に跳ね返すとき、竹の反跳しながらきしむ音が儚い雪の挙動をみつめる心のとらわれ、個々の雪に宿るアニマへの情念をも解き放つ。このときもはや私であるとも言えない身体の内側に流れる鼓動の脈が深々とした寂静の残光に照らし出されて立ち上がる。写真的断続その無限大の時間を含みながら音楽的連続の有限の時の内側に呼びだされた世界。世界の一刻一刻と変化しながらも絶え間なく乱舞する形象をいまここに一挙に呼び出す瞬間の出来事。外側の契機によって断ち切られようとしながらその破れ目に呼応するようにいまここの身体のある限り自己修復し自生しながらつなぎとめられるいのちとその徴。良寛が<淡雪のなかにたちたる三千大千世界またその中にあわ雪ぞ降る>と詠んだ雪のあらわれは、空へ一瞬にして回帰する死の写真的時間と、空から緩やかにあらわれだす再生の音楽的時間の同時現成する二重の生命の言葉への徴、時という存在次元の写実であり良寛のあらわれであったろうか。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十一)

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音楽と紅葉の季節にひたってさとりと迷いが空のなかで溶け合い眼に映されたモノクロがわずかに彩色しだすとき言葉は聴こえない音のようだ。艶やかな光の揺らぎ、木の影が風に揺らぐ家の壁面のようにいつまでも変化しながらうす暗がりのなかに消えゆく時空に漂い、沈黙がやがて闇につつまれる動きに僅かに抑圧されながら言葉の膜だけが身体のなかをうごめいている。そして突如降り出したような雨氷のごとく言葉の時が満ちてくるとき時は静止し、生のなかの死、死のなかの生をみる。泡沫や幻影も常住からの虚妄な離脱ではなく常住こそが無常であり、空は自己否定の究極的ニヒリズムではなくインド大乗仏教の空の思想化と論理も有の為の無であるかのごとき、まるで常世に生きる蛾や蝶のみている世界、死後の世界のような空から生まれた曼荼羅のように幻は現に輝きだす。神秘体験は仮想曼荼羅に浸って行為するは愚か、無常すなわち常住の世界なかに突出してくるように感じられてくる、そうであるならさとりとは手に入れるものではなく目的でも動機でもない空と同化して溶解する未来を受け入れながら未来へ進み出る能動の動きのなかで光を放つ一瞬。光の満ちた空や海の青色、それでも自己否定を繰り返し洗われながら現れる青色と青色のあいだが生死の深みと複雑さを人間に現成させる。曼荼羅は教えよりもむしろさとりの現出された形、さとりと知ることのないさとりから目覚めた一瞬に曼荼羅がみえる。無の風は有の音、音楽は空と無常の無目的な曼荼羅の現成、青と青のあいだ、光の死の闇の隙間に輝き映し出される木々の彩色が映しだす言葉は、眼に聴こえだした内部の音の曼荼羅その芽であるだろう。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十)

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差異と反復からはなれた動く常態としての砂山。解脱から空、空から現成というプロセス、循環が一回であり、一回が循環である空華。 非思量、非存在、非意味、非差別、非超越。空と華が合一しふたたび離反していく運動。青山常運歩と而今、一瞬という永遠に立つ主体はうごきのなかで生きる。固定化し実体化された事象、常識からの離脱は言葉の切断と解体による読み直しの方法というより言葉の破格から生じた残余、言葉を疑いながら存在としての華に解脱立脚し言葉の筋目にうかぶ薄明の空において沈黙の結節点を残すことであり、音を疑いながら音を紡いでいくのは迷いのあらわれでなく残響に空をひらき音に時をつなぐことだろう。空において華を時へ連関させる、あらゆる関係性の網目、縁起において存在が時となって流れだすとき音に呼ばれたみえない空華が生起する。山のうごきは数ミリの砂の微細な無数の流動であり、百分の一秒は山をうごかす。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二十九)

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存在へとむかう意識を解放し存在からはなれていく。たとえばジャコメッティの極小の男、あの立像へと意識が向かっていくような音の過程とは反対に、立像に近接した地点にはじめから立って存在の骨格から意識をはなす。振り返れば男はますます小さく微かに空間に浮遊し幻影すらみえない。目標点あるいはうごく立脚点すらを失った意識はうすれていく。だが意識が遠ざかっていくほどに、男の側からではなく複数の方向からからだを包むように音が聴こえだす。闊達な脳神経をやり過ごし存在の骨格を浸さないよう気を配り、伝達通経路としての柔らかい脊髄の反応を聴きながら弾く。骨格の外側、だが脊髄の内側でもあるような空間的矛盾点を時間が裂く時空の非統一場に解放され、存在の骨髄をまわりながら骨格を離れていく身体の言葉の密度の高い呻き、だが浄化された水のように響く音が。そして音楽の終結音が外部の微かな現実の音に映しだされる、内部の音楽が外部の音へと逆転写される音の終結に立ち会うとき、あの小さな不動の男がいつのまにかふたたびあらわれている。彼はいまや現実の音によって歩きだす。この静止した小さな立像のような、浮遊しながらもはっきりとした存在の傍らで弓を弾く手を動かし始め、存在から離れることによってこれをゆさぶり立像を揺動させ、立像の動きを時空に招き入れる音楽のプロセス。そのためにあの立像の傍にいる日常を歩む日々の生地を丁寧に織っていくこと。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二十八)

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いまここの満たされた不完全さ、そのわずかな差異の音が人生に染み渡って時空を染め上げること、わずかな音とわずかな時間で表現し尽くされる短い俳句のような、静止した音と沈黙の間隙をぬっているのは人と人のあいだの、人間の混沌の上澄みをすくいとる澄みわたった動き。寸前の音の記憶ともちがう一瞬の一音に浮遊するすべて、凝集された一枚の静かな写真、間に浮遊する音の断簡。音の動きと音と音の間に映された止められた時間に開かれた一枚の曼荼羅空間。大袈裟ではない生の凝縮された密度の高さ。横に行き来し縦に語り弾き継がれる絹の道。誰もが誰でもなく、何者もが何者でもない場所で、いまここにある存在の偶然の出会いが時空の内部で傾斜し衝突しながら作用して生じる音。外部、すなわち内部と内部のあいだで何かがこだまし、混沌が混沌自身によって内側に沈静化されながら微かな音となって外側に飛び出すように沈殿しながら消え去る。音によって存在しだすのは人と人の間にある何か、音に投げかけられ間に浮かんだ問いが、人間性をこえた人々の間にただよい浸透する、問いそのものが即座に答えであるような音楽。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二十七)

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分化し、二度と戻らない人間の自然をこの内部に見つめるなら、死の克服に取り憑かれた意思や夢の技術に対極して、生の儚さや微明のなかにこそこの身体を浸さなければならない。静かな空間と音色の質感を小さな条件としながらも、生の手まえで静まる凪風を契機として体内を風の音が吹き荒れ、生の欲望が死のエロティシズムに洗われるように変容しながら無に退歩してゆく身体のプロセスのなかで、つつましくもどこかはっきりとした口調で、生まれることのなかった胎児の言葉が音に呼び出されてはこの欲望をなだめようとする。死者に贈られる生きて輝く花が惜しまれるように枯れて、姿を変えながら死へと同化して還っていく、そのように静かで遥かなところから到来してきては形にならないままに消えていく束の間の音の時間にひたりながら、絵になる手まえの空間、だから決して世界にそのまま刻印されない空間で、生死のあいだにただよい浮かんでいる皮膚のような生地に織り込まれているぼんやりとした影の花のかたち、死者の音の光をはっきりとみとどけること。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二十六)

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有情は無情の際に立ち上る。主情としてのことばはそのあいだにある。「方丈記」にみられる基調は此岸の写真的ともいえる無情世界、だが文体は音楽的で言葉に織り込まれた音の律動を通じて彼岸の時間的軌道、無常を同時に生きる。書き言葉の鍛えられた推敲の上についには言葉への恐るべき諦念によって彼岸への道は断ち切られるが、そのプロセスとしての書き言葉の存在性によって起立した余韻の沈黙のなか、逆説的にも書かれた言葉が永遠に生き続ける。吐き捨てられることでプロセス自体の存在性が際立つ二度と戻らない言葉。対して「雨月物語」の底に聴かれる基調は彼岸の幻想空間としての音楽的世界、だが文体はむしろ写真的なリアルさを徹した話し言葉の息に依って立ち、間近に接しながら浮遊してくる写実空間が身体に乱れ入って幻想的彼岸へと転化する。冷徹でそぎ落とされた言葉の切迫性がそのまま此岸と彼岸の静寂、畏れと狂気に直結し、終わりが再び物語のはじまりでもある有情の永劫回帰する言葉。幻想と同時的に現実は存在しだす、だから非現実こそ現実の化体であり正体でさえあって現実のなかの物事的記録をこえた多様な存在性をみなければ人間精神の機微はあらわれてこない。いまなお長明や秋成の言葉のように、近代に生まれた写真は現実の静止した映像の痕跡、リアリティの所在を事物の余韻に写すプロセス、音楽はみえないものの語りを聴く場、主客に聴いて主客が一過同時的にこの幻想現実の場に入り込むプロセスが問いかける経験。何かのことばを自他に目覚めさせ呼び込むための音と写真、そのことばを磨くことで音と写真の際に立ってくる言葉の軌跡。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二十五)

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写真は静止した細部を見ることを可能にする。忘却を忘れること。観察でなく見ざるを得ない物体としての細部。言葉が捨て去られていく罪の意識のなかに言葉を発見していくという背理において、外部の存在との偶然の接触が生きるための必然的契機となりうる。猫の死体の横たわる車道の狂気は、病に伏せる人間の肢体を慰め続けてきた飼い猫の眼のなかに透き通る遥か彼方に生きる光を映し出す。私は目覚める。呼吸を機械に支えられた筋肉の動かない病に生きる細い肉体の傍で叫ぶこともなくただただその眼で何かを深奥から語る沈黙の音が、この鼓膜をふるわせこの身体を屹立させるのだ。殺すな、お前がこの人を生かし続けよ。人間が動物を飼いならしてきたという人間の人間による人間のための論理。気配を察知するのは忘却されその記憶すらなくなったかにみえる存在を感受する原始感覚の目覚め。その境界に投じられた引き裂かれた猫の血みどろの死体。外部の一撃によって目の眩んだ瞬間に生じる自我の起源は、都合のよい記憶の箱にはなく人間が忘却を免れえない罪の意識のうちにあるのかもしれない。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二十四)

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写真が語っているとき写真は音を呼ぶ。写真のテクスチュア、文脈や展開、形式による物語性から鳴りだす音楽は主情の影の一型になりうるが、音を呼ぶ根源的契機は視覚に掠め取られた写真粒子のかたまり、次元を剥奪されてはいるがかろうじてかたちをなしている物体のかけがえのない痕跡がこの身体を透過する亡霊の聴取にある。写真から何が聴こえたか、写真の音をどう観たか。光のなかの闇、モノクロームのなかの色が音であり、音楽は無ではなく光と闇の隙間に揺らぎうごめく淵から出来してくるようだ。写真を視ながら音を待って弾くとき、聞こえないがここに聴かれた音と弾かれ聞こえている音の隙間で主情と物の怪が交差する。言葉が言葉の光と闇を忘れ去るとき人間は死へ向かって歩きはじめるのではないか。写真と音楽の間に我が身を立たせることは光と闇の間隙に立ち、忘れられた言葉の身体の糸を紡いでゆく試練としての行為かもしれない。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二十三)

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言語が普遍化され記号化されるほど経験そのものは忘却されていくのかもしれない。だが生の経験は常に自己を呼び出しては世界との平衡が新たに生じ動きながら変化する。突如ふり出した雨が静寂を破り沈黙が破られれば何かが語りだし、身体の誰かが語る。生まれた身体の言葉は青い稲の伸びやかに育つ棚田に自ずから区切られた畝のようにどこまでも動的に曲がり、微細な静的変化に満ちながらもいまここに立つ畝の磁場に鋭敏かつ劇的に応じる瞬間性を内に秘める。身体の光と闇が畝の交差点で交互に立ちあらわれ消え去るその間に間に言葉が空に浮かび上がり、身体は言葉の文脈や意味に束縛されずその色を鮮やかに逆転させる。一つの個体にとってかけがえのない固有の時間を刻み続ける世界は機械のように再現されることがない。やってきた自己は意思において平衡を打破しながら他者に生まれ変わる。たましいは身体の意思の言語に祈りが密着している場所に生じ、常に先送りにされた現実的未来を身体が感じている内部の自発的な運動におもえる。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二十二)

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数時間も生存できないだろう山頂に歩みすすむ登山家の薄れかけた意識のうちにあって、強靭にも保ち続けられている意思が身体のどこか残されてあるだろう。寒さを通り越した山頂のあたたかみのうちにあって、眼に写された氷河から析出する一滴の氷柱に映る光の粒に満ちてくるいま、いま、いまの断ちきられた連続に自己と世界の記憶のなだれ込んだ極微小の虚空面にすべての影が投機されてあるだろう。写真は単なる意識の記号ではなく誰のものでもない意思と葛藤の織り込まれた世界の無垢、その光像として撮られてここにある、そうであるならあらゆる死者の顔の温もりあふれる表情が宿っているだろう。写真に呼び起こされた粒子の一粒一粒が音の粒の束となって生起し躍動しながら遥か遠く知覚されない彼方へと消え去ってゆく。だがいまここに水中に映る月のように知覚の静かに蘇生し目覚めるように俄かにたち現れた鏡の水面に、あのとき撮られなかった世界をうつす写真、音にならなかった世界の聴かれる音楽が揺らぐ。カメラに撮られ音に聴かれることによって存在しだすのは、写真ではなく音楽ではない、動き続ける世界の時間の乱調にあらわれた聖なるイメージの痕跡である。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二十一)

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無常は無ではなく常なるものの否定でもないが即興もまた無常の形とも言えない、はたして即興における意思はどこからやってくるだろう。意思は否定の否定としての肯定ではなく想像が此岸の身体に降りた彼岸の極みにおいて情の飛沫をまき散らしては束ねほどき乱舞する心であり、音と光のない世界その否定から生ずる復活された肯定の力というより、負あるいは負の重なりそのものが条件であるような無条件の地平にそのまま生じてくる。いまここに生起するこの意思という未知の旅の出発点が心の行為へとむかう身体的動機に等しい場所であるならば、即興においてはじめて表現が成立する場所が与えられうるのかもしれない。無為や無の徹底あるいは即興に破壊と抵抗の意思を持ち込むのではなく、無条件というあらゆる条件の彼方にある地平線から駆り立てられるように意思が生じてくる、それがなぜなのかわからない余韻と余白とともに、だからこそ即興は真に自由であり続ける生命。自由。汚染された世界の自己研磨され摩擦から生まれ出ようとしている無垢は、想像力と現実の接点において生じた心と身体の火花飛び散る瞬間的な開放的時空において、苛烈な発火体の動いた行方に待ち受けているであろう静なる何者かによって連続的に支えられつつもその彼方へと向かっていく断続的行為によって磨かれる。
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筋目書き(二十)

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微音量で身体の部屋の窓のようなものを開けて、見えない外側から差し込む淡い光の変化に導かれて鳴りだす音。部屋の内側に音と光が木魂すれば、心の窓辺で光と音が揺れる。私はここにいない、土の中で土の気泡を呑んでいる。思想や浮遊した意識感覚を脱ぎ捨て自己に忠実であることもなく自己を滅せず無に向かうこともなく、ただ天の土に宿したミミズの身体と心で土に差し込んだ光を心と身体に感じるように撮られた写真には何が写されてあるだろう。自己が内側であることがそのまま外側にいることであり外側であることがそのまま内側にいることであるなら心と身体の境界である皮膚の窓は閉じない。鳥籠の中には鳥がいるが籠の窓が開け放たれているのに窓から出ようとはせず、遥か昔から鳥は森の内側であり森の外側から森のすがたかたちをながめ内外を行き来している。写されるのは鳥が幾重にも空間に重なる時の凝集、月光に一様に照らし出された林の織りなす木肌、光の密度と光の束に浮かび上がる色のモノクロームだろうか。光は時間の上で躍りながら世界を巡っている。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十九)

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道は世界から抑圧され制限された意識の抽出する何者かではなく決定されない自信のうちがわで思いがけない形で生じる、それが瞬間的で瞬発的であるからこそ深く開放的な海底の闇の明るい空間へ自他を同時に放り投げ、他者を慈悲深く待つゆるやかな時にあらわれる自己をみつめる。自信はこのもう一人の自己の出現を待つことであり、結果から正否が分かれるように生ずるものではなく身体的鍛錬や論理による自己規定の徹底でもなく持つべきものでも持つものですらもない、世界のすべてが根拠がなく確信のもてない生起であることを感じつつ権力と強力な自己決定、この見知らぬ顔をしながら忍び寄る謂れなき暴力からのがれるように時空の非対称なゆらぎに智慧と観察と空しき心と即興的身体を混在させ髪をむしりながらも何かを覚悟してゆくプロセス、自らを足場にいまここの定めを脱ぎ捨てる意思の言葉、自信こそ希望への道標である。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十八)

R0013361
質量なき無限の素粒子で満たされているにちがいないこの世界に生じているあらゆる声は、いまここにあらわれては物質を透過し消え去る波、音の余白に密着する身体の影。心は意識できず身体の影のようにあってつかみどころなく声とともに動く。輪郭をもたない陰影、白い微光を余韻に浮き立たせる声の言葉は、意識の表象ではなく心そのものから生まれる。耳で聴くのではなく音楽に身体そのものがかき乱された心の余白その虚空に再び開かれながら死の明るさに映されては消えていく、語りが呟かれたかのごとく死から生まれてきたかのような声の言葉に立ち会うそのとき、現にいまだ遺されている身体その重さから解き放たれつつある重さのない心が世界に浮遊しながら言葉の波動をただ響かせ、その残響が鏡となって微光の反射に呼び覚まされた私はいつの間にか何かを書いている。若冲の描いた残月の仄かな光明に照らし出された竹の葉の不規則な逆三角形の影が死者の心の風にゆさぶられて動くそのとき、絵に死者の音楽を聴く眼は心のほか何者でもなく、私に心はなく心は私ではない。身体が私ではない心息を吐く行為、言葉が声であり声が心である音のない音楽。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十七)

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遠近法や面を区切るものとしての線からのがれ、墨の筆線と余白の面の境界をじっとみつめる。次第に浮き立ってくる淡白い存在を眼に宿しながら転じ、線が余白から動き線に余白が囲まれれば面があらわれ、面の縁を再びながめてみれば線ははじめとちがった次元にみえてくる。静止した白と動的な墨の境界に浮き立つ亡霊に魅せられるように、線と面、動と静、時間と空間の相互浸透に自我が溶け出せば孤独は断ち切られる。表現で痛みを示すかわりに、痛みを時空に滲ませ交感し、交換しながら孤独同士を隙間に緩衝させるあり方。一つの音を聴き続ければ音は音でなくなる。音と沈黙の輪郭を息が描いているなら、音の線が音とその余韻、さらにその境界にあらわれながら漂う息の音楽は、音の力とは無関係に緊張を保ちながら、過剰な情を和らげる。吐息は時空の圧縮された生命線。音の線が霊を呼び起こすなら、音の余白は霊を鎮めるのかもしれない。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十六)

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気が集結すれば作用点から自ずと生じて動きが生まれる、そのように身体が楽器に作用すれば音は磨かれる。音が腕の重みの作用に対する反作用であるなら、聴くことは音の作用に委ねた身体の反作用、同時に両者は両者の作用であり反作用でもある。弓を梃として弦にこすれる手はこの交点にあり、この場所を信ずるところに道が生ずる。道は時空を隔てて細くつながり、音に道が示され道に音が導かれながら弓が弦をうごく。道に残された痕跡が音、その痕跡もやがて気の流れのうちに消え去る。物質は偶発的な確率的痕跡ではなく、あらわれては消える気のすがたかたち。物質でありまた波である光も気のように姿を消す。山は石を生み、水は岩を転がす。音は古代より水に磨かれてきた小石の息。手は音を吐く。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十五)

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良寛の消息「自然」をみながら弾く。有時において時は去来ではなく間断がない存在自体とされる。五度はなれた二音を弓の持続に託して和音の果てにある僅かな音の振動と揺らぎを聴き続ける。ここにおいて和音は与えられた調和ではなく身体的調律を迎え入れる空間的契機であり、筆の行方を音でなぞるよりも自然、この二文字のすべてを空間に一挙にみる、そのなかに聴かれる音によって心身は透過させられる。雨風に竹の揺れる夜、音が音のなかに消え去るとき空間に音の色彩がみえだす。自然に弦を抑える手が僅かに震え、響きが響きをこえる。情が響きだせば音は止むことなく音色も変化するが、空間が音色の時の入れ篭となって時間が空間のなかに存在しだす。細やかな身体の規律とともに存在へのおののきが音の両極に等しくあらわれるそのとき、時間は去来する相を超え出て自己が自己に去来しながら時のなかに徐々に溶けだしてゆく。自己は時間、時間は存在、存在がまた自己であるという自然。
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筋目書き(十四)

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写真にはみていた現実の相と、みていなかった相が同時に存在する。世界の言葉が自分の言葉ではないその僅かな差異の隙間にこそ、相や非相をこえた世界の表現が与えられる場所がある、そのことを写真は示す。写真は音楽のように一つの身体的言語の場であるともいえるだろう。言葉にならなかった溶け落ちる現実の水に濡れた艶やかな泥の痕跡を凝視するとき、写真に写された相はみえない非相をあぶりだし、その双方を参徹しながらみることによって世界の言葉がこの目の網膜に写しだされる。目が世界の光を捉える眼となるとき、眼は世界の言葉をみる目となる。調律されたピアノの和音の響きを注意してきけば音の僅かな差異とゆらぎが深くききとられてくる、その場所に耳が広くひらかれることを通じて世界のつぶやきがはじめてきこえだしてくる。音のなかにこそ音ではない世界の発音と発語がきこえてくるように、写真は言葉にならない言葉、 意識にならない意識を微かな頼りとして現実へむけた目を眼にひらかせる装置、ひらかれた眼の言葉が現実をとらえなおす行為、同時に言葉が眼の内側で再び目へと退歩することによって、眼の言葉の余白に世界の言葉の出現をみるプロセス。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十三)

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音質を求めてテールピースという楽器の一部分をやすりで削ってニスを塗りかえす。黒と黄金色をまだらに塗る。削った木目の凹凸にそって黒がしみ込んで筆が一瞬止まる。そのとき迷う筆からはなれ、手で直接木目にニスをぬりこむと、削った時はみえなかった微妙な凹凸が色にのって突如浮かび上がる。迷いのなかに悟りがある、悟りは行為の過程に生ずる迷いがなければあらわれない。目覚めは結果でも目的でもなく、迷いのあいだにある、脱力したとき、そのときもう言葉のうちにはない時間のなかにただよっている。意識の追いつかない広く開けた空が、楽器の変化したいまはきこえない音のなかにみえだす。音質は外側から測れないが、求める過程のうちに迷いからのがれて不意に聴こえだしてくる。この音は弾くまえから聴き取られている、音は現実にあらわになるのを待っている。楽器を弾きだすというのは、あらかじめ生じた音を現実に返すことでもある。楽器をいたわるのは、未来の音を楽器の空洞、その空のなかに聴くこと。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十二)

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竹の葉が風にうごき、光が葉に映るのをみながらうっすら眼を閉じる、耳が澄まされる、草や鳥の囁きの変化がより微細に聴こえてくる。竹は風にしなると隙間に空気が溜まるようにうごく。竹同士は葉が掠れても幹はぶつかることなく、風に吹かれるまま螺旋状に少しずつ塊をなして退け合わず自然にまわるのがぼんやりみえてくる。意識がふってわいてあらわれ、留めるにせよ留めないにせよ、たちまわって溜まりをつくっては言葉は素早く消えていく。何かを見いだそうというのでもないのに心の細部にわいてくる何か。世界を対象化する限定からはずれた場所に呼びだされ、その余白に自己があらわれる。外部にも内部にもある何か、それは内部にも外部にもない空だろうか。動く竹の囲う隙間が象る背後にみえてくるそらのようにこの手はそれをつかめない。竹が風にしなるとき音は空に近い場所から降りてくる。写真は竹の実在とぶれた風、その背後にぼけた空を写す。言葉で音は聴けない、言葉で写真は撮れない、言葉は空を知らない。心は、空の経験の明るい余白に瞬く間に深くあらわれてくる。心は、風に吹かれる竹の隙間に広がる空に遥か遠く映されてある。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十一)

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音楽は、私を通じた自然が密やかにあらわれた音の軌跡、主客の滅する船のうえ、風にふかれ河をこいで、自他が動いて交わる空間を多様にひらきながら、いまここに時があらわれては一回ごとに異なる目覚めをもたらしうるプロセス。音楽という形を繰り返しているうちに、一回の音のあらわれ自体が一つのリズムとなり、時間と空間がその余韻において切り結ばれる。わずかではあるが多様な、ずれの生じた滲みのなかに、人と人がつながる場に開けた空間が見え隠れしては去り、姿をかえながらまたどこかでよみがえる。気の飛び散った余白に、突如として目覚めをもたらす。音楽は世界が瞬く束の間。世界を切り取る発火体。花火に残る煙は、空中を風に揺らいで散在しながら姿を消していく。音もなく散る煙は世界の影。一回の演奏は一枚の写真。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十)

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ここを離脱した場にいた、だがいま、たしかに時のなかにいた。そうやって音楽はただただあらわれては消えていく。だがその時間は歪んだ空間のあらわれであり、鬼や死者の出現しうる場といえるかもしれない。時間が滅したとき鬼は去るが、鬼を出現させようと目論めば鬼はでてこない。音楽は何のためにあるかと問うよりも、それ自身が何者であるかという答えのない問いの断続的な動きそのものである故に、音楽自身がいまここに生きていられる。人間と似てその儚さゆえに、いまここに多様にあらわれる存在である音楽は鬼をまねく。この音楽の時間は、水平的で歴史的な連続性のうちにあるのではなく、あらわれては消え去る垂直の重なりのなかで断続的、断片的に生じる。ここに音楽の写真的断面をみる。ふと聴けば死者がやってくる。眼に飛び込む遺影は死者をよみがえらせる。言葉を断ち切れば祈りのなかにいる。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(九)

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音楽が時の動きのうちがわに本当にあってすすむと、演奏の前と後では必然的に状態が異なっている。夢のようにあらわれた演奏後の静寂は、行われた演奏を過去に向かって観想する静止した空間ともとらえられるかもしれない。動く音の静止した余白に再び時間を照らすための空間、鏡としての空間が静寂のなかにあらわれる。鏡は演奏を鋳型としこれを鋳ることによって演奏が像として残る。この静止した像に跳ね返るように音の身体的経験が再び現実にかえされてくる。そして音楽において演奏 という行為がなければ鏡があらわれようとしない、そうであるなら、演奏するという動的な問いは、いかに静的な鏡の出現をもたらしうるかという問いに向かっているともいえるだろう。余韻にあらわれる余白、たちあらわれた静の鏡としての空間がそのまま動の像としての時間を切り結ぶことによって、演奏とは別の、その余白に過去の忘れていた何かがたちあらわれるように未来が切り開かれる。世界をファインダーでのぞいて撮られたフィルムを透かしみて、さらに静止したプリント写真をみる重層経験と似ている。瞬間が空間を要請し、空間の密度がこの圧縮された時間を際立たせ、さらに次なる時間の発火点として働く。歩きながら出会い偶然をつかみとる瞬間、シャッターを押す意思のプロセスが未来をたぐりよせる。時を経て過去へたなびく視覚の煙が未来を切り開く。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(八)

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人間はあらゆる存在の働きによって生きて死んでゆく。人は死の呼びかけへの応答、躓きながらあるく痕跡を世界に残しながら、死への抵抗として、死とともに生はある。生活に息づく日々の素朴な反復に生ずる微かな差異に、僅かな他者と死の到来に、一筋の輝きを得ながら生きる。音楽は死を他者とし、写真は世界を他者とし、医は人間を他者とし、身体の絶え間なきこの応答が生活の営みである。時空は日々の軸であり踏みながら動くための次元、音や写真はこの時空を足がかりに、頼りない知覚の痕跡や身体のはっきりしない記憶を通じて、だが確かに人がまだ生きている生活の場所を、死や他者のあらわれる覚めた夢のうちにつなぐ。医は愚直で俗ではあるがそれだからこそ聖なるこの生活の場に、人がありのまま変化に保たれるための行い、老子の「微明」それは無為の為、死に絶え間なく対峙し続けながら生きるための簡素で必要な行い。技術や思想は生や死のあり方に正に負に加担しても、生死そのものには決して及ばない。生死の尊厳は生活のなかに、はるか昔から忍びこんでいる。
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筋目書き(七)

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他者との関わりのなかで、不意な出来事から自史やそれを形作る行為のすべてが崩れ去っていくとき、いまここに結実しているかにみえていたものがあっという間 に予兆なく消え去る。そこにあらわれる現実は、否定や肯定と反省の倫理によって、また悲しみの感情のなかに癒されるように片が付くものでもなく、身体の底の方からやってくるどうしようもない恍惚と不快感をともなった絶望と生死の葛藤そのものである。しかしそのときそこにはじめて、もう一人の自分の存在が新しくみいだされ自覚されてくる可能性がひらかれてある。自分があたかも死に立ち会っているかのような謎めいた何かがはじめて聴かれる。この恍惚の場所に段々とあらわれ、失敗や挫折の経験のなかにこそひらかれる生の感覚、自らを生きなおすための力が身体の奥底からやってくるのを感じているのである。決して定まらず、容赦ない変化に翻弄されていく現実は必然的に失敗を抱え込んでいる。それでもいつかそれと気づかないうちに、失敗から、死のような場所から、それだからいっそう自己を超えた発見と身体の知恵が、古い皮膚が剥げ落ち、皮の下に張る皮膚に象徴されるかのごとく蘇生されてくる内部の身体が、ここにあらわれてくる。失敗によってしぼられ、生き治される身体。私が私として死ぬことのできないというような不死の存在様式が遍く未来に広がっているのではない。世界は変わったが、得体の知れない不気味さが到来したのではなく、世界の現実が厳然として牙を剥いた今、再び目を覚ますときがきている。死を死ぬことによって私と離れたもう一つの私があらわれ、生を違う方角からみつめて新たな時間を個々がつくりながら、関わりのなかで失敗を生きていく。
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筋目書き(六)

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日々の起伏をともないながら、からだの調子や感じ方一つで世界は日々刻々と変わる。生きている理由も本当にはみつけられないまま、それでも頼りないこの生にいくばくかの魅力を感じられるうちは、心と身体は思考とは少し別なところで勝手に先をうごいていく。朝めざめる身体の変化するときのように、思ったときその思いはもうそこにはなく、そして考えはただあとから生じた事象についてゆく。臨機応変に人間が人間であろうとする個々の判断や行為も、世界に対してできうる限り賢明であろうとする動きの一つ一つの過程にすぎず、それ自体は大げさなものではあり得ないが、目立たず、微かで、一見うごきが遅く、他を威圧しないような情のなかに、人間の目覚めを呼び覚ます力が働いている。静と動はゼロと無限がそうであるように、対立するものではなく、お互いがお互いを直に聴き取り見つめ発見しあっている。また生と死のように。存在が有限である人間は、この世界で微小であることによってしか無限に近づき、無限を感ずることはできない。その無限も数なのではなく、個々の存在の質の極まった「一」であり、いずれ過ぎ去る人類史も一つのはかない存在の影にすぎないが、翻って「一」はどの微小の個体をもただ一つのかけがえのない存在たらしめていることに、もはや疑いはない。
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筋目書き(五)

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寒い冬の山にかかる霧の風景を背にして、川に浮かぶ船のな かで眠る夢をみながら眠っていた。山を冷たく覆い隠す霧はあたたかかった。夢のなかでも寝ていたので、そういう場所にいるとおもうのが不思議だったが、よ く思い出せば、風景はどこかにみえていた。たとえば技術革新の夢というような夢とは異なって、音が 夢を現実に押し出してくるプロセスのなかにあるときには、いわば荘子の「胡蝶の夢」のなかに心と身体がある。音楽することは、出した音を聴くことを機軸と して、外側のすべてに支えられながら、存在が現実を照らし出す光を、弾いている手の感触を通じて心がつなぎとめ、身体の内側に光を保ちつづける行為であ り、音が消えてなくなっても音の光が内側に芽生えはじめている、そのとき無音は観念なのではなく、身体がもはや楽器を介さずに聴こえない音の夢をみてい る。この無音に聴かれるものは、身体の内部の形にならない生命の乱れのようでもあり、自律しながら規律された波の動きのようでもある。音楽の過程は無音か ら無音へと、どこかの夢にどこかの夢をつたえる覚めた動きである。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(四)

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光は物を通じて影をうむ。光なしに影はなく、影なしに光はみえてこない。光の集積が底流している現実には、それだけ影がある。物質によって光にも影にも濃淡があるから、より世界は複雑となって、とどのつまり水に映る円い月のようにものとものの区別はなくなるかのごとく、全てがみえてくる。写真は光の痕跡、現実の影(あるいはネガ)であり、光が物質の動きを惹起しながら写真に何かをうつしだす。物質を介して影を聴きながら光をみる行為である写真は発見をもたらすが、発見は偶然の出会いから生ずる賜物であるといえる一方で、物質が光と影を宿しながら動いた必然的な軌跡がその姿をみせた一断面ともいえる。光と影の対立やその一方から他方をみるのではなく、光と影とが物質を介して分離しながらも混在している一瞬を記録する写真は、偶然と必然の接点にも位置する。こうして写真は光と影の接点である物質の、偶然と必然の接点に生じる運動を内包している。この物質のふるまい、運動の力によって、写真というネガが人間の感覚を通じて現 実へと再現像され、さしもどされるとき、写真に身体的な意味が生ずる。物質に情が宿る、情が物質にのりうつると知るのは、そのときである。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三)

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写実が真実を引き寄せるのは、人間が有機体として生きていることの背景に、無機質なものの動きを感じるときである。人間の理想と苦しみさえもが現実を写し取ることのなかに投機されるのは、人間の無機的な物質性によってこそ、経験という無垢なる生の出来事が生じるためである。心はその影であり、心が時空を一時つなぎとめる。世界を写実するとき(写真を撮るとき、あるいは音を聴くとき)同時に自らの心の動きに従うことは、もののふるまい、ものの内なる歴史を経験することに他ならない。無機的なるものへの祈りであり、ひいては人間であることへの祈りなのだ。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二)

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情は飛び、生き動きながら住処をかえる。情を感ずるために(あるいはその怨念を逃れるために)自己を離脱して空けようとするそのとき、書いていることや思っていることは概念たりえないどころか、書いたとき思ったときはもうすでに彼方へと飛び散っている。あらわれては消えていく瞬きのように、あるときは速くあるときは滞留しながら、情の飛沫が時空を飛び散っては身体に停泊する。残された言葉は、すでに情の宿主たる身体をはるかにこえている。書かれた言葉が情そのものを示しているのではなく(あるいは言葉に綴られることを情がゆるさず)、言葉の余白にこそ情の厚く切なる声が聴こえてくる。詩の言葉というものは、容易に何かに編み込まれるのを拒む場所をその永遠の住処としなければならないのか。詩の裏に潜む行き場のない情が、さらに考えるよう、それも無制限に強いてくるのである。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(一)

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ここに言う「悟り」は「音」にいいかえられるかもしれない。「音とはひとすじに、音の力のみにたすけられて働きだす。」自らの音(悟り)にかき乱された心が、次第に音(悟り)の沈黙へとかえるとき、無心になることがある。無名性のなかに自己をおこうとせずとも、さまざまな情も迷いのすえに、やがて等しく無に帰するときがくる。情は自己を離れ、風となって時をただよう。そのときはじめて迷いのない身体の芯がうまれるのかもしれない。世界が一変しても世界は現 にあり続けるという苦しみ、赦されざることを何かに導かれて(それも自らの意図に反するように)赦していくという背理に生きる言葉。自己の赦しをもって自己を現実のなかに離脱し、何かが創造されていくプロセス。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(序)

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言葉によって行為することとは、私にとってどういうことだろうか。年末に高野山の宿坊を訪れ、冷たく張りつめた早朝の空気のなか僧侶の読経を聴いて、この素朴な問いのなかで年越しをした。それから何かがじっとして停滞している。


震災で亡くなった家族の写真が、流されても埋もれたがれきのなかから人の情の手や祈りによって家族のもとへとやってくる。津波に残された一本の木は、すべてのなぎ倒された木々を背負って立っている。

あらゆる過去の出来事は消すことができない。つくられず、語られもしなかった歴史は、行為する身体として生き続ける。過去は不意に姿をあらわす、いまを待ち望んでいる。

自分史の余白に浮かぶ他者の言葉を、私を通じた主情によせる。時がたって、この主情が離れていくときやってくる他者の言葉をふたたび白紙に綴る。文脈を剝ぎ取られた断簡零墨は、私のなかの遠い記憶かもしれないし、そとの世界や過去からもたらされる教えかもしれない。

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