筋目書き(八)

R0013360
人間はあらゆる存在の働きによって生きて死んでゆく。人は死の呼びかけへの応答、躓きながらあるく痕跡を世界に残しながら、死への抵抗として、死とともに生はある。生活に息づく日々の素朴な反復に生ずる微かな差異に、僅かな他者と死の到来に、一筋の輝きを得ながら生きる。音楽は死を他者とし、写真は世界を他者とし、医は人間を他者とし、身体の絶え間なきこの応答が生活の営みである。時空は日々の軸であり踏みながら動くための次元、音や写真はこの時空を足がかりに、頼りない知覚の痕跡や身体のはっきりしない記憶を通じて、だが確かに人がまだ生きている生活の場所を、死や他者のあらわれる覚めた夢のうちにつなぐ。医は愚直で俗ではあるがそれだからこそ聖なるこの生活の場に、人がありのまま変化に保たれるための行い、老子の「微明」それは無為の為、死に絶え間なく対峙し続けながら生きるための簡素で必要な行い。技術や思想は生や死のあり方に正に負に加担しても、生死そのものには決して及ばない。生死の尊厳は生活のなかに、はるか昔から忍びこんでいる。
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筋目書き(七)

R0013449
他者との関わりのなかで、不意な出来事から自史やそれを形作る行為のすべてが崩れ去っていくとき、いまここに結実しているかにみえていたものがあっという間 に予兆なく消え去る。そこにあらわれる現実は、否定や肯定と反省の倫理によって、また悲しみの感情のなかに癒されるように片が付くものでもなく、身体の底の方からやってくるどうしようもない恍惚と不快感をともなった絶望と生死の葛藤そのものである。しかしそのときそこにはじめて、もう一人の自分の存在が新しくみいだされ自覚されてくる可能性がひらかれてある。自分があたかも死に立ち会っているかのような謎めいた何かがはじめて聴かれる。この恍惚の場所に段々とあらわれ、失敗や挫折の経験のなかにこそひらかれる生の感覚、自らを生きなおすための力が身体の奥底からやってくるのを感じているのである。決して定まらず、容赦ない変化に翻弄されていく現実は必然的に失敗を抱え込んでいる。それでもいつかそれと気づかないうちに、失敗から、死のような場所から、それだからいっそう自己を超えた発見と身体の知恵が、古い皮膚が剥げ落ち、皮の下に張る皮膚に象徴されるかのごとく蘇生されてくる内部の身体が、ここにあらわれてくる。失敗によってしぼられ、生き治される身体。私が私として死ぬことのできないというような不死の存在様式が遍く未来に広がっているのではない。世界は変わったが、得体の知れない不気味さが到来したのではなく、世界の現実が厳然として牙を剥いた今、再び目を覚ますときがきている。死を死ぬことによって私と離れたもう一つの私があらわれ、生を違う方角からみつめて新たな時間を個々がつくりながら、関わりのなかで失敗を生きていく。
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筋目書き(六)

R0013305
日々の起伏をともないながら、からだの調子や感じ方一つで世界は日々刻々と変わる。生きている理由も本当にはみつけられないまま、それでも頼りないこの生にいくばくかの魅力を感じられるうちは、心と身体は思考とは少し別なところで勝手に先をうごいていく。朝めざめる身体の変化するときのように、思ったときその思いはもうそこにはなく、そして考えはただあとから生じた事象についてゆく。臨機応変に人間が人間であろうとする個々の判断や行為も、世界に対してできうる限り賢明であろうとする動きの一つ一つの過程にすぎず、それ自体は大げさなものではあり得ないが、目立たず、微かで、一見うごきが遅く、他を威圧しないような情のなかに、人間の目覚めを呼び覚ます力が働いている。静と動はゼロと無限がそうであるように、対立するものではなく、お互いがお互いを直に聴き取り見つめ発見しあっている。また生と死のように。存在が有限である人間は、この世界で微小であることによってしか無限に近づき、無限を感ずることはできない。その無限も数なのではなく、個々の存在の質の極まった「一」であり、いずれ過ぎ去る人類史も一つのはかない存在の影にすぎないが、翻って「一」はどの微小の個体をもただ一つのかけがえのない存在たらしめていることに、もはや疑いはない。
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