筋目書き(二十)


R0013220

下呂 gero (21), 2009



同事をしるとき、自他一如なり。


<道元>


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筋目書き(二十)


微音量で身体の部屋の窓のようなものを開けて、見えない外側から差し込む淡い光の変化に導かれて鳴りだす音。部屋の内側に音と光が木魂すれば、心の窓辺で光と音が揺れる。私はここにいない、土の中で土の気泡を呑んでいる。思想や浮遊した意識感覚を脱ぎ捨て自己に忠実であることもなく自己を滅せず無に向かうこともなく、ただ天の土に宿したミミズの身体と心で土に差し込んだ光を心と身体に感じるように撮られた写真には何が写されてあるだろう。自己が内側であることがそのまま外側にいることであり外側であることがそのまま内側にいることであるなら心と身体の境界である皮膚の窓は閉じない。鳥籠の中には鳥がいるが籠の窓が開け放たれているのに窓から出ようとはせず、遥か昔から鳥は森の内側であり森の外側から森のすがたかたちをながめ内外を行き来している。写されるのは鳥が幾重にも空間に重なる時の凝集、月光に一様に照らし出された林の織りなす木肌、光の密度と光の束に浮かび上がる色のモノクロームだろうか。光は時間の上で躍りながら世界を巡っている。

                          



●正法眼蔵、「菩提薩埵四摂法」から。「同事ということを知る時、自他は差別なく一如である」。白楽天が友として琴と詩と酒を挙げていることを引いて、人は琴と詩と酒を友とする、琴と詩と酒は琴と詩と酒を友とし、人は人を友とし、天は天を友とし、神は神を友とする道理である、これが同事を学ぶ事であるとされる。ここにいわれる「事」とは振る舞いや態度とされ、自他の循環は時に従って終わりがない。菩薩の四摂法とは、一つには布施、二つには愛語、三つには利行、四つには同事であるという。各々についてこの節で説かれている。



●今日に名古屋で立ち寄ったマックス・エルンスト展に触発されて書いた。私というものがあるなら、私自身の世界への態度や死生観と重なり少なからず共鳴する事ができた。時々山に行って偶然立ち会う森をほの明るく照らす月光と、各々の絵画が幾度もかぶさってくるのだった。作品は光と時間の境界であり、その静止した境界にエルンストのなかの内的で動的な他者を感じる。絵画も刊行されている印刷物の印象とはまるで別物で、それぞれが緑色をしたモノクローム写真のようにみえた。月光に照らされた森の存在感は、ガルシア・ロルカの感じていたにちがいない月光に照らされた夜の艶かしい静寂にたぶん似ているだろう。道元を借りて他の言い方をすれば自他の内側と外側の相互的な浸透によって「空劫已然自己(道元)」(父母未生以前の姿)が発現されてくる、それは生死を問うものでもあるが、それが写真によって世界と関わりながら世界に写されるとき、事実や真実や己の狭い世界観を逸脱することができるのかもしれない。だがその境界領域を無のうちに求めてとどまるというよりも、自他の循環のなかで境界領域が不思議と浮き彫りにされ静止されてくる。写真が撮れている撮れていないという写真という結果から表象される自意識、あるいは逆に自意識の極限まで滅せられた写真的純粋世界よりも、世界への自らの身体的態度がいかにあって世界とどう浸透し合って循環しているのかという行為自体が問われている。写真で言えばこの過程から発現されてくるようなものを、エルンストはその制作において最も重視しながら自らの生死へ敬意を払っているように感じられた。エルンストは鳥の存在の仕方のなかに写真的哲理を問うているといっても過言ではないだろう。



●最近は考えたり書く時間がほとんどないので突発的な事柄や印象から即興的に一気に書いて少し整える、そういうことにならざるをえない。深めてさらに分析をし、言葉の質感と意味の範囲を広げながら、出てきた言葉を深めて削り書き直せばより納得されるのかもしれないが、ある意味においては即興という事の言葉における質的な修業にはなるだろう。