筋目書き(十四)



R0013471

下呂 gero (15), 2009



若見諸相非相、即見如来。


<道元(
正法眼蔵「見仏」より)


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筋目書き(十四)


写真にはみていた現実の相と、みていなかった相が同時に存在する。世界の言葉が自分の言葉ではないその僅かな差異の隙間にこそ、相や非相をこえた世界の表現が与えられる場所がある、そのことを写真は示す。写真は音楽のように一つの身体的言語の場であるともいえるだろう。言葉にならなかった溶け落ちる現実の水に濡れた艶やかな泥の痕跡を凝視するとき、写真に写された相はみえない非相をあぶりだし、その双方を参徹しながらみることによって世界の言葉がこの目の網膜に写しだされる。目が世界の光を捉える眼となるとき、眼は世界の言葉をみる目となる。調律されたピアノの和音の響きを注意してきけば音の僅かな差異とゆらぎが深くききとられてくる、その場所に耳が広くひらかれることを通じて世界のつぶやきがはじめてきこえだしてくる。音のなかにこそ音ではない世界の発音と発語がきこえてくるように、写真は言葉にならない言葉、 意識にならない意識を微かな頼りとして現実へむけた目を眼にひらかせる装置、ひらかれた眼の言葉が現実をとらえなおす行為、同時に言葉が眼の内側で再び目へと退歩することによって、眼の言葉の余白に世界の言葉の出現をみるプロセス。

                          



● 正法眼蔵の「見仏」中にある清涼院大法眼禅師のこの言葉を道元は、「諸相が相でないようにみえているとき、すなわち如来をみているのだ」という理解におさまるものではなく、諸相を見て取りまた非相を見て取るとき如来を見ているのであって、非相とよぶ相も諸相とよぶ相も同じく如来相としてある。見仏するには、いわば見える教えと見えない教えに眼を凝らして究徹参徹した眼によってみなければならない。諸相であるとか非相であるとかにとらわれて相をみるとき、仏法はついに体得されはしないから自己の耳に眼に絶えず見聞しつづけ自己という世界を透脱しなければならない。眼によって自己を脱することはありえないなどと思ってはならない等々、喝破している。

●言葉は世界の隙間からもれでてくる、言葉はその言葉にはない情や意識をあらわしうつしだす、世界の言葉は現実に埋もれ、世界の混沌から生じる差異からもれで てくる現実を聴くことのなかに出来してくる。一枚の写真は瞬間をつかまえて吊るしてみることなのではなく、一瞬に写し出された写真のうちに世界の差異が発見される目覚めといえるかもしれない。息をつく間もない、その間にあらわれるものが現実の姿、現実において世界に生じた差異は常に逃げ去っていく。写真を撮ることが世界のなかであたかも自分の言葉を探し続ける果てしない旅のようにみえるのは、意識によって現実の強弱をつけながら現実の差異を隠すのとは異なる場所、世界を自らに自覚するための言葉の余白において、言葉が絶え間なく生じていると知らされるからだ。世界は瞬時に生成する絶え間ないプロセスのうちにそれ自身が推移しているから終わりはない。差異は見かけ上わずかでも背後に膨大な蓄積を秘めている。わずかな差異がわかるようになり、すぐさま身体が 反応するには経験の反復を自らの自然が経なければならないから難しいが、発見されるまでのプロセスと発見後のプロセスの観想においてこの運動が痛感されてくる。わずかな身体兆候の差異の発見が生死を分ける一大事に転ずる、その発見が医学の一つの権威と化すこともあるが、発見の余白に膨大に存在している蓄積された絶え間なく生成する世界の現実、その自然の驚異をわずかな差異のうちがわに本当に凝視しなければ、発見も軽薄な自己満足に過ぎない。本来現実とはそ ういう差異の連続でそのすべてが生死のなかにある、それを写真はこの眼に教える。写真は瞬間とその余白の差異そのものが同時に定着される奇妙な装置であり、世界の聴こえない言葉、みえない現実があらわれる。現実を言葉で拾い上げて強弱をつければ、差異そのものは言葉の裏に姿を消す。言葉の力や言葉の技巧から逸脱することのなかに、世界のつぶやく言葉を見いだしていくこと。写真はその契機でもある。わずかな差異とずれ、些細なものに耳を傾けるということはたしかに難しいが、限られた日常の診療ではほぼ不可能に近くとも、写真的経験は現実の隙間に注意を向け、差異を感じ取る契機として私にとって意義を有しているように思われる。


●自分と自分の出す音の僅かな差異に気づくとき、子供の即興を聴くとき、どこかで誰かのたたいた鐘の音を耳にするとき、異国の雑踏のなかに佇み聞き慣れない人の声を聴くとき、いま朝霧の明るみの変化のうちに徐々にあらわれてくる山の姿をみていたら鳥が鳴きながら飛び去ったそのとき、自分に密着した言葉がはじめてやってくる。偶然と必然では語りきれない現実のなかに身体は放り込まれそのなかで生きている。真に即興的であるという困難の余白に生まれておちた言葉は、音の形と詩をどこか遠くからみちびいているのだろうか。