筋目書き(序)



Pasted Graphic 2
下呂 gero, 2009



いはれざらんとき、ふつといわぬとやこころうるべき。


言うことができないとき、完全に言うことができないと腹をきめるべきだ。


<道元>


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筋目書き(序)



言葉によって行為することとは、私にとってどういうことだろうか。年末に高野山の宿坊を訪れ、冷たく張りつめた早朝の空気のなか僧侶の読経を聴いて、この素朴な問いのなかで年越しをした。それから何かがじっとして停滞している。

震災で亡くなった家族の写真が、流されても埋もれたがれきのなかから人の情の手や祈りによって家族のもとへとやってくる。津波に残された一本の木は、すべてのなぎ倒された木々を背負って立っている。

あらゆる過去の出来事は消すことができない。つくられず、語られもしなかった歴史は、行為する身体として生き続ける。過去は不意に姿をあらわす、いまを待ち望んでいる。

自分史の余白に浮かぶ他者の言葉を、私を通じた主情によせる。時がたって、この主情が離れていくときやってくる他者の言葉をふたたび白紙に綴る。文脈を剝ぎ取られた断簡零墨は、私のなかの遠い記憶かもしれないし、そとの世界や過去からもたらされる教えかもしれない。


●2月1日に筋目書き(三)を書き終えた時点でふりかえって、この項を(序)とした。