筋目書き(十九)


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下呂 gero (20), 2010



水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、
水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。


<道元>


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筋目書き(十九)


道は世界から抑圧され制限された意識の抽出する何者かではなく決定されない自信のうちがわで思いがけない形で生じる、それが瞬間的で瞬発的であるからこそ深く開放的な海底の闇の明るい空間へ自他を同時に放り投げ、他者を慈悲深く待つゆるやかな時にあらわれる自己をみつめる。自信はこのもう一人の自己の出現を待つことであり、結果から正否が分かれるように生ずるものではなく身体的鍛錬や論理による自己規定の徹底でもなく持つべきものでも持つものですらもない、世界のすべてが根拠がなく確信のもてない生起であることを感じつつ権力と強力な自己決定、この見知らぬ顔をしながら忍び寄る謂れなき暴力からのがれるように時空の非対称なゆらぎに智慧と観察と空しき心と即興的身体を混在させ髪をむしりながらも何かを覚悟してゆくプロセス、自らを足場にいまここの定めを脱ぎ捨てる意思の言葉、自信こそ希望への道標である。

                          



● 正法眼蔵の「現成公案」から。この鳥魚の比喩の導入に続き、「自分にふさわしいあり方、やり方を得れば、それにふさわしい生き方ができる。それは自分にとって大きすぎず、小さすぎず、自分勝手なものでもなく、他者からおしつけられたものでもなく、もともとそなわっていたものでもなく、いまになって現れてきたものでもない」と続く。 



● 多忙と疲労のなか僅かに残されたとても短い時間で、ある不登校のあまりにも心優しき少年のありうべき道を信じつつ、ほとんど即興的に書いた。思いがなければ書くこともできない、だから思いは過程そのものだ。だがその都度異なる思いによって決定は先延ばしされ、先延ばしによって思い自身が揺らぎだす、しかし自信から離れながら信じる過程をかろうじてたどるとき、意味や価値の一所に留まることのない反復のプロセスに遅れて発現してくる深く暗くいまにも閉じようとしている闇の穴に差し込む一筋の光、その一瞬の煌めきにおいて、自己が放たれる時空がはじめてそこにはっきりと決定されてくるだろう。