筋目書き(四十二)雨月9 白峯の幻

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扶桑 fusou, 2013





かの国にかよふ人は、必ず幣をささげて斉ひまつるべき御神なりけらし。




雨月物語 白峯



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筋目書き(四十二) 雨月9 ー白峯の幻ー




 「目ざめているあいだに紡ぐ思いを眠りの幻のなかにまで紡ぎ込むのは控えよう。ー17世紀イギリスの医師トマス・ブラウンの言葉、ゼーバルト『土星の環』よりー」
 
 時間が自らの内部経験の基体であって、ことのはじまり、はじめに人間が引きつけられるのは常に、世界の異形、異常であって神秘であるということに、いま目覚めていなければならない。白峯のこの最後の言葉に象徴されるように、白峯という完膚なきまでに構築的な世界も、そのはじまりの創造は世界の異常面から端を発し、その終わりも狂気への畏れでむすばれている。個々に流れる時間は空間のような境界をもって区切られるように支配されることは容易にはできないのだろうし、様々なコントラバス音楽を聴いていて音楽がまだ全くもって死に切ってはいないと感ずることからもわかるように、世界の幻、この時間的狂気を、区切られた仮想空間によって凌駕し否定し切ることは決してできないだろうが、いま同じ悪夢が繰り返されないための目覚めは、個々において少なくとも感じ取られなければいけないだろう。

 目覚めながら、歴史を退行しながらすすむことが道であって、建築された何ものかからネジを一つずつ外すための作業が必要であるというふうに考えたとき、白峯という完全無欠な建築からあるキーとなっている言葉のネジの断片を抜きとり、身体への残響のなかでそれを解体しながら白峯にふたたび還元して、いわば勝手に読み取りかえしながらも白峯を脱線していくこの身体が、これまでに自然にできあがってきたように感じられる。はじめの意図とは別の様態が現出されてくる自然にしたがえば、部分が全体を代表しないあり方のなかにすでに身を投じてきているようで、本筋を追い求めるほど本筋からそれていき、そこに知らない沈黙がかさなって、本筋から逸れていくことがおぼろげに浮かぶ筋目のような何かとなって漂いだしている。

 いま動いていた何かが形骸化しはじめ動きが止まっていくときにはもうその行為の意義は過去のもので、それを歴史にしたり過去の焼き返しをしてもつまらないと考えながら、写真のように昔の知られざる思いつきのような焼き直しから何かを発見していくような、過去からのゆらぎの瀬戸際につねに立っていて、幻の時間のなかに未来を待ちながら地味に継続していると、遠くみえている海岸線に変化するきざしがなくても、足下にくりかえし来ては聴こえひいていく砂浜の波の痕跡は刻々と変化している。そしてどこかで無惨な爆音が響いて死者を想像しながら、それとどこかでつながっている足下の波の音をききつける度に、世界のまだ空白な部分を埋めようとする所有や支配への欲望からは次々と身体が離れていく。離れていく部分がちがう道筋を呼ぶが、道として一瞬みえたかにみえた空間は、いずれ時間のなかに埋まっていくように消滅して、気づけば葉の掠れる音、波の音だけが聴こえ続けている。

 あるときこの虚構のような現実から目覚め、幻の微かな音に導かれてひとたび落ち着いてみれば、眠りのなかで微かな音を聴きながら、いまここにある現実への契機がまるで幻であったかのように、時間が過ぎていったと知る。いま幻のようなものが絶えず聴こえていて、それが現実への契機としての実感であるなら、トマス・ブラウンの言葉を無視するように幻の世界を仮想的にしつらえながら、真の幻の価値を蹂躙するように突き進んだ現代においては、この言葉を逆行するように、価値ある幻の側からみた現実のなかにおいてこそ、あらゆる思いを紡がなければならない。それにはやはり、まず世界を虚心坦懐に聴くことだ。その基本的な狂気へとふたたび戻ってくる。