筋目書き(十八)
下呂 gero (19), 2009
ただまさに、やはらかなる容顔をもて一切にむかふべし。
<道元>
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筋目書き(十八)
質量なき無限の素粒子で満たされているにちがいないこの世界に生じているあらゆる声は、いまここにあらわれては物質を透過し消え去る波、音の余白に密着する身体の影。心は意識できず身体の影のようにあってつかみどころなく声とともに動く。輪郭をもたない陰影、白い微光を余韻に浮き立たせる声の言葉は、意識の表象ではなく心そのものから生まれる。耳で聴くのではなく音楽に身体そのものがかき乱された心の余白その虚空に再び開かれながら死の明るさに映されては消えていく、語りが呟かれたかのごとく死から生まれてきたかのような声の言葉に立ち会うそのとき、現にいまだ遺されている身体その重さから解き放たれつつある重さのない心が世界に浮遊しながら言葉の波動をただ響かせ、その残響が鏡となって微光の反射に呼び覚まされた私はいつの間にか何かを書いている。若冲の描いた残月の仄かな光明に照らし出された竹の葉の不規則な逆三角形の影が死者の心の風にゆさぶられて動くそのとき、絵に死者の音楽を聴く眼は心のほか何者でもなく、私に心はなく心は私ではない。身体が私ではない心息を吐く行為、言葉が声であり声が心である音のない音楽。
●正法眼蔵、「菩提薩埵四摂法」から。何気ない日常の言葉のなかにこそ死があり音楽への衝動がある。衝動は柔らかい襞に包まれた一瞬の気の輝きか、それは襞に包まれた慈愛でもあり官能でもあるだろうか。
● ある一日の最後、ある方の死を身内の方がご丁寧に知らせてくださった。日頃から懇意ではなくとも親しみを感じながらほんの数分のあいだだったろうか、余談をした高齢の礼節深い女性だった。「気がたよりです」最後に言いのこされて席を立った。去っていく姿がいまもみえる。姿はどことなく不安にもみえたが、振り返ったその眼差しは奥深くやわらかく覚悟にみちていた。知らせを聞いたとき、あの声あの言葉は遺言、死がつぶやいた声だったのかもしれないと思った。達観しておられるようにみえたから、苦しみはどれほどだっただろう。毎朝、気功をやっておられて最後まで身体の均衡を心に保たれていた。どことなく痩せた身体は重たかっただろうが、心は軽かったのかもしれない。その姿のやわらかな眼差しは心で感じるもの。心の他はない。
●何かをひたすら行為し続けたあとには余白の空しさがある。仕事に忙殺されたあとの開放感ではなく、何かそれだけをひたすらやっているとき、感覚が麻痺しているわけではなく使い切った脳、疲労してきた意識の混濁のなかにむしろ全感覚が研ぎすまされてくる、意識が身体となってくるからこそ、朝が来てまたはじめたということ以外その過程にさえよくよく気づいていない。荘子のいう聴くこととは耳の志向ではないだろう。不断に動いているのはいま、心だけだ、心は決して無になることはない。そして果てしない行為のあと部屋から出て外気にあたれば、満たされた充実感や自己実現の満足感とも全く異なる明るい空のようなものがそこにはっきりと感じられる。この空しさの場にどこかから飛び込んでくる言葉はいつも深く胸を打つ。なぜだろうか。
● 一角の集中を投じているつもりの筋目書き、あらゆる切り口をその消息から開くことの可能な道元に身を委ねながらも、つまるところ粗雑な認識でしかない言葉や、これといった技術もなく中途半端な音楽や写真に挫折しながら、かろうじて音や写真を遠くから近くからめぐって何かをおもい綴る。生が死であるからこそちがう形で出会いが生ずる写真の残光に包まれながら、自らを言いなおすように時を隔て写真を撮り、言葉でみがかれていくかにみえる錯覚や思い込みから常に逃れ出る音、そのうちがわにうごめくようにまた再び微かに聴こえてくる音楽に清新された言葉を少しずつさがしもとめ、外側の思いがけない契機をたよりにたよりなくどこかに生じてくる考えや思いにまとわりつく何かの気配が僅かずつずれながらあるがままに動いてゆく身体の痕跡、そのあらわれの言葉が心の行為であることを願いながら。
● 心が不断にありつづけて変化し続けるということを身体が本当に知らなければ、たとえ心の時代といってはみても意識が拘束されるだけのこうした言葉は真に成立しえないし現実から遠い。不断である心を意識が遮断したところに言葉が生まれ、言葉は断続的にその都度あたらしい。これも意識の誤解かもしれないが言葉が音楽に同化していく過程に感じられるそのわずかな差異をふまなければ、私には本当の演奏ができないという不思議な心のうごきがある。こうして綴っていると、朝に気をととのえる、そういう生活にだんだん自然となっていくのかもしれない。ほんの数分間だけで、心というものの動きそのものが、いつか楽器で本当にできるようになったら素晴らしいのだと思う。一方で写真はいまここから思い起こされる世界の遺言のようなものかもしれない。写真の特質はそれが人間の心の表象や意識のイメージから常にずれているということにあるだろう。そしてずれが新たなイメージを生むからこそ写真を選び直す。写真には心をそのまま一瞬に映し出す怖さがある、だから写真の一瞬に魂が奪われるかのごとく心に写真が住み着く。言葉からわかれた音楽と写真を言葉においてつなぐこの行為を経なければ、時空を超えた「詩」のなかでそのすべてが混在する場はないだろう。