December 2012
筋目書き(三十三)
音という門、光という門は今ここの虚空にある、だから空を打つように弾く、空を打つように撮るとき、打つ対象が同時に打たれている自己でもあるならば、生じた音と写真は自己でもなく対象化された世界でもなく自己と世界の差異のなかにすらない響きの真っただなかに立っている。権力の挙動と自他の関係性の硬直化からのがれつづけ何かと何かのあいだの相対的差異すら実体化することがない、そのことのうちに自生してくる境界の膜面、うごく音の内部の静的世界、とまった写真の内部の動的世界において、生の内側が死である浮世に漂泊しながら膜の前後に発現する音は虚空からの教え、膜の物質へ定着した光は空から生じた存在の痕跡であり、それらは絶対的無名の徴であり絶対的善への瞬間的起点でさえあるかもしれない。音楽と写真は、私という名の虚空が音と光の門をたたくことによってこそあらわれだし、はっきりと姿が見えず音の聴こえない虚空をこそ打ちつづける高密な身体のはたらきのなかに生じた現の微かな色であり、それが同時に虚空そのものの密かなる現への兆候と現出でもあるならば、世俗の王に敬礼しまた抗しまた世捨て人として現をわたるよりも、あらゆる法と境界をじわり超えだし記憶の底から蘇るようにしみわたってくる音の現への響きのなかで苦行を楽しみ、内部が外部であり外部が内部である写された世界の再現しているいまここに立ちつづけ、何かが何かに結ばれる何かを信じながら自発的行為が自発的に形成する門をたたく場に目覚め、暗い世界のどこかにいまも綿々とただよっている虚空の声を能う限り鋭敏に聴きとりつづける行為が、現の未来への橋となり詩をかたり歌を呼ぶ緒の眼であるのだ。写真と本文へ… to photo and read more…
筋目書き(三十二)
張りつめた冷たい空気に立ち、無限数の雪の粒が微風の乱舞に身をまかせて竹の葉に落ちるのをみる。各々の雪も落ちて合わされば個々のかけがえのない形の跡形さえなくなるこの現世の無常のなかに、雪の一粒一粒の声そのアニマのすべてを一挙に感受しようとする心のはたらき、粒子に仮託された光の痕跡の無数の束を同時に捉えるかのような心の眼が生じてくる。雪の儚さへの意識のとらわれが一つの契機となって個々の有限な雪の融解と次々と舞う雪の運動を静観しながら心は雪と言う名の無名となり、心となった小さな私が雪に潜む無限そのものを密やかに聴いている。夜の暗い闇のなかに灯された光に反射するように踊り散らつく白い雪に照らしだされ、降りつもった雪にしなる竹が何の前触れや規則もなく一瞬にして雪を空に跳ね返すとき、竹の反跳しながらきしむ音が儚い雪の挙動をみつめる心のとらわれ、個々の雪に宿るアニマへの情念をも解き放つ。このときもはや私であるとも言えない身体の内側に流れる鼓動の脈が深々とした寂静の残光に照らし出されて立ち上がる。写真的断続その無限大の時間を含みながら音楽的連続の有限の時の内側に呼びだされた世界。世界の一刻一刻と変化しながらも絶え間なく乱舞する形象をいまここに一挙に呼び出す瞬間の出来事。外側の契機によって断ち切られようとしながらその破れ目に呼応するようにいまここの身体のある限り自己修復し自生しながらつなぎとめられるいのちとその徴。良寛が<淡雪のなかにたちたる三千大千世界またその中にあわ雪ぞ降る>と詠んだ雪のあらわれは、空へ一瞬にして回帰する死の写真的時間と、空から緩やかにあらわれだす再生の音楽的時間の同時現成する二重の生命の言葉への徴、時という存在次元の写実であり良寛のあらわれであったろうか。写真と本文へ… to photo and read more…
筋目書き(三十一)
音楽と紅葉の季節にひたってさとりと迷いが空のなかで溶け合い眼に映されたモノクロがわずかに彩色しだすとき言葉は聴こえない音のようだ。艶やかな光の揺らぎ、木の影が風に揺らぐ家の壁面のようにいつまでも変化しながらうす暗がりのなかに消えゆく時空に漂い、沈黙がやがて闇につつまれる動きに僅かに抑圧されながら言葉の膜だけが身体のなかをうごめいている。そして突如降り出したような雨氷のごとく言葉の時が満ちてくるとき時は静止し、生のなかの死、死のなかの生をみる。泡沫や幻影も常住からの虚妄な離脱ではなく常住こそが無常であり、空は自己否定の究極的ニヒリズムではなくインド大乗仏教の空の思想化と論理も有の為の無であるかのごとき、まるで常世に生きる蛾や蝶のみている世界、死後の世界のような空から生まれた曼荼羅のように幻は現に輝きだす。神秘体験は仮想曼荼羅に浸って行為するは愚か、無常すなわち常住の世界なかに突出してくるように感じられてくる、そうであるならさとりとは手に入れるものではなく目的でも動機でもない空と同化して溶解する未来を受け入れながら未来へ進み出る能動の動きのなかで光を放つ一瞬。光の満ちた空や海の青色、それでも自己否定を繰り返し洗われながら現れる青色と青色のあいだが生死の深みと複雑さを人間に現成させる。曼荼羅は教えよりもむしろさとりの現出された形、さとりと知ることのないさとりから目覚めた一瞬に曼荼羅がみえる。無の風は有の音、音楽は空と無常の無目的な曼荼羅の現成、青と青のあいだ、光の死の闇の隙間に輝き映し出される木々の彩色が映しだす言葉は、眼に聴こえだした内部の音の曼荼羅その芽であるだろう。写真と本文へ… to photo and read more…