筋目書き(三十四)雨月1 雨月への旅

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大晦日に訪れた熊野古道での静寂とどこからともなくふかれる風、葉の擦れる掠れた音は音の抽象への入り口ではなく音からもたらされる身体への具体的な響き、肌への触覚だった。演奏することの具体性は確固としてある。写真がそこにある何かを写すように、存在の具体を経なければ音はやはり浮わついているように感ずるし、音は一見抽象的であるようでも、思想や観念を常に逸脱するいまを生きているそのことのあらわれ、極めて具体的なものごとでもある。一方の輪をまわしても、もう一つの場所に眼をやらなければ音をまともに弾くことはできない。写真はおそらくその具体というものの肌触りに限りなく近いということもできるが、だからこそ写真の抽象論も必要になる。写真の具象世界と抽象的把握は写真の宿命であり、写真の矛盾ではないだろう。それにしても写真論も音楽論も抽象的存在論はこの日本の現状にいたってむなしい。道元的な悟りのように「何か」というしかないかけがえのない一瞬がある一方で、同じく「何か」としか言い様のない、だが決してなにもないという抽象ではないなにかある具象、生の具体的時間とは何だろうか。モノがカタル身体性とはどういうことか。…写真と本文へ… to photo and read more…