筋目書き(三十二)

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張りつめた冷たい空気に立ち、無限数の雪の粒が微風の乱舞に身をまかせて竹の葉に落ちるのをみる。各々の雪も落ちて合わされば個々のかけがえのない形の跡形さえなくなるこの現世の無常のなかに、雪の一粒一粒の声そのアニマのすべてを一挙に感受しようとする心のはたらき、粒子に仮託された光の痕跡の無数の束を同時に捉えるかのような心の眼が生じてくる。雪の儚さへの意識のとらわれが一つの契機となって個々の有限な雪の融解と次々と舞う雪の運動を静観しながら心は雪と言う名の無名となり、心となった小さな私が雪に潜む無限そのものを密やかに聴いている。夜の暗い闇のなかに灯された光に反射するように踊り散らつく白い雪に照らしだされ、降りつもった雪にしなる竹が何の前触れや規則もなく一瞬にして雪を空に跳ね返すとき、竹の反跳しながらきしむ音が儚い雪の挙動をみつめる心のとらわれ、個々の雪に宿るアニマへの情念をも解き放つ。このときもはや私であるとも言えない身体の内側に流れる鼓動の脈が深々とした寂静の残光に照らし出されて立ち上がる。写真的断続その無限大の時間を含みながら音楽的連続の有限の時の内側に呼びだされた世界。世界の一刻一刻と変化しながらも絶え間なく乱舞する形象をいまここに一挙に呼び出す瞬間の出来事。外側の契機によって断ち切られようとしながらその破れ目に呼応するようにいまここの身体のある限り自己修復し自生しながらつなぎとめられるいのちとその徴。良寛が<淡雪のなかにたちたる三千大千世界またその中にあわ雪ぞ降る>と詠んだ雪のあらわれは、空へ一瞬にして回帰する死の写真的時間と、空から緩やかにあらわれだす再生の音楽的時間の同時現成する二重の生命の言葉への徴、時という存在次元の写実であり良寛のあらわれであったろうか。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十一)

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音楽と紅葉の季節にひたってさとりと迷いが空のなかで溶け合い眼に映されたモノクロがわずかに彩色しだすとき言葉は聴こえない音のようだ。艶やかな光の揺らぎ、木の影が風に揺らぐ家の壁面のようにいつまでも変化しながらうす暗がりのなかに消えゆく時空に漂い、沈黙がやがて闇につつまれる動きに僅かに抑圧されながら言葉の膜だけが身体のなかをうごめいている。そして突如降り出したような雨氷のごとく言葉の時が満ちてくるとき時は静止し、生のなかの死、死のなかの生をみる。泡沫や幻影も常住からの虚妄な離脱ではなく常住こそが無常であり、空は自己否定の究極的ニヒリズムではなくインド大乗仏教の空の思想化と論理も有の為の無であるかのごとき、まるで常世に生きる蛾や蝶のみている世界、死後の世界のような空から生まれた曼荼羅のように幻は現に輝きだす。神秘体験は仮想曼荼羅に浸って行為するは愚か、無常すなわち常住の世界なかに突出してくるように感じられてくる、そうであるならさとりとは手に入れるものではなく目的でも動機でもない空と同化して溶解する未来を受け入れながら未来へ進み出る能動の動きのなかで光を放つ一瞬。光の満ちた空や海の青色、それでも自己否定を繰り返し洗われながら現れる青色と青色のあいだが生死の深みと複雑さを人間に現成させる。曼荼羅は教えよりもむしろさとりの現出された形、さとりと知ることのないさとりから目覚めた一瞬に曼荼羅がみえる。無の風は有の音、音楽は空と無常の無目的な曼荼羅の現成、青と青のあいだ、光の死の闇の隙間に輝き映し出される木々の彩色が映しだす言葉は、眼に聴こえだした内部の音の曼荼羅その芽であるだろう。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十)

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差異と反復からはなれた動く常態としての砂山。解脱から空、空から現成というプロセス、循環が一回であり、一回が循環である空華。 非思量、非存在、非意味、非差別、非超越。空と華が合一しふたたび離反していく運動。青山常運歩と而今、一瞬という永遠に立つ主体はうごきのなかで生きる。固定化し実体化された事象、常識からの離脱は言葉の切断と解体による読み直しの方法というより言葉の破格から生じた残余、言葉を疑いながら存在としての華に解脱立脚し言葉の筋目にうかぶ薄明の空において沈黙の結節点を残すことであり、音を疑いながら音を紡いでいくのは迷いのあらわれでなく残響に空をひらき音に時をつなぐことだろう。空において華を時へ連関させる、あらゆる関係性の網目、縁起において存在が時となって流れだすとき音に呼ばれたみえない空華が生起する。山のうごきは数ミリの砂の微細な無数の流動であり、百分の一秒は山をうごかす。写真と本文へ… to photo and read more…