筋目書き(十六)

R0013318
気が集結すれば作用点から自ずと生じて動きが生まれる、そのように身体が楽器に作用すれば音は磨かれる。音が腕の重みの作用に対する反作用であるなら、聴くことは音の作用に委ねた身体の反作用、同時に両者は両者の作用であり反作用でもある。弓を梃として弦にこすれる手はこの交点にあり、この場所を信ずるところに道が生ずる。道は時空を隔てて細くつながり、音に道が示され道に音が導かれながら弓が弦をうごく。道に残された痕跡が音、その痕跡もやがて気の流れのうちに消え去る。物質は偶発的な確率的痕跡ではなく、あらわれては消える気のすがたかたち。物質でありまた波である光も気のように姿を消す。山は石を生み、水は岩を転がす。音は古代より水に磨かれてきた小石の息。手は音を吐く。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(十五)

R0013337
良寛の消息「自然」をみながら弾く。有時において時は去来ではなく間断がない存在自体とされる。五度はなれた二音を弓の持続に託して和音の果てにある僅かな音の振動と揺らぎを聴き続ける。ここにおいて和音は与えられた調和ではなく身体的調律を迎え入れる空間的契機であり、筆の行方を音でなぞるよりも自然、この二文字のすべてを空間に一挙にみる、そのなかに聴かれる音によって心身は透過させられる。雨風に竹の揺れる夜、音が音のなかに消え去るとき空間に音の色彩がみえだす。自然に弦を抑える手が僅かに震え、響きが響きをこえる。情が響きだせば音は止むことなく音色も変化するが、空間が音色の時の入れ篭となって時間が空間のなかに存在しだす。細やかな身体の規律とともに存在へのおののきが音の両極に等しくあらわれるそのとき、時間は去来する相を超え出て自己が自己に去来しながら時のなかに徐々に溶けだしてゆく。自己は時間、時間は存在、存在がまた自己であるという自然。
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筋目書き(十四)

R0013471
写真にはみていた現実の相と、みていなかった相が同時に存在する。世界の言葉が自分の言葉ではないその僅かな差異の隙間にこそ、相や非相をこえた世界の表現が与えられる場所がある、そのことを写真は示す。写真は音楽のように一つの身体的言語の場であるともいえるだろう。言葉にならなかった溶け落ちる現実の水に濡れた艶やかな泥の痕跡を凝視するとき、写真に写された相はみえない非相をあぶりだし、その双方を参徹しながらみることによって世界の言葉がこの目の網膜に写しだされる。目が世界の光を捉える眼となるとき、眼は世界の言葉をみる目となる。調律されたピアノの和音の響きを注意してきけば音の僅かな差異とゆらぎが深くききとられてくる、その場所に耳が広くひらかれることを通じて世界のつぶやきがはじめてきこえだしてくる。音のなかにこそ音ではない世界の発音と発語がきこえてくるように、写真は言葉にならない言葉、 意識にならない意識を微かな頼りとして現実へむけた目を眼にひらかせる装置、ひらかれた眼の言葉が現実をとらえなおす行為、同時に言葉が眼の内側で再び目へと退歩することによって、眼の言葉の余白に世界の言葉の出現をみるプロセス。写真と本文へ… to photo and read more…