筋目書き(三十八)雨月5 白峯の影

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身体の影で身体を支えている白峯。熊野の沈黙と風の告示は、写真と音楽の脇道に映され響きだすものに、それらの古道の光と音が見え隠れする白峯の影としてある。いまここで、その白峯の影を通過しながら旅をしている。何かの影を通過しているとき、そのとき通過しているというそのことと、まわりの光と音が目覚めのなかに開かれて感じられて、変化していくだけだ。ベンヤミンならパサージュであり、追想と目覚めの弁証法だろう。「夢の迅速さと強度[内的集中性]をもって心のなかで、在ったものを初めから終わりまで味わいつくす[くぐり抜ける]こと、その目的は、そのようにして現在を覚醒している世界として経験することであって、結局のところあらゆる夢は覚醒している世界に関わるのだ(W・ベンヤミン)」。雨月にひっかかり、ここにみちびかれて、「白峯」という行為にみえてきたのは、おおよそこのことだろう。これを方法とはいえないが、ある動きの方向をなしている。…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十七)雨月4 白峯の核心

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剣に魂をさされたときに肝要なのは ー 落ち着いて眺めること、血を一滴も失わないこと、剣の冷たさを石の冷たさでもって受け入れること。突かれたことによって、また突かれた後、不死身となること。(F・カフカ) の言葉は、意味を言葉でさらに考察するよりもまえに、すぐれた写真をみているときのように身体に突き刺さってくる、剣の言葉にきこえる。このカフカのことばのような写真的身体から世界を眼差したうえで、なおかつ浄瑠璃のような言葉の音楽的揺動をもってしてこれを写し切る書き手、その指の運命が化け物の光に触れて、その恍惚の向こう側に、書き手の現の身までがぼやけてみえてくるかのようなこの場面は、強烈な光と色彩を放って読み手を魅了する。崇徳院が化鳥とともに「瞋恚のほむらのような陰火の光に照らし出されて現われる。…院の怨霊は、光を背景に、あるいは光そのものと化して姿をみせるが、この闇を破る強烈な光は、夢の終わりを告げるおだやかな朝の光ではない。世界を一瞬のうちに夢魔の世界にと変容させるおどろおどろしい光である(長島弘明著『雨月物語の世界』)」。だが一方で、書き手の眼の言葉は、幽霊を写し取る写真によってこそ定着されるような、冷徹な光の痕跡を写しているようにもみえる。そして西行はこの崇徳院の壮絶な変貌ぶりにたじろぐどころか、これを嘆きながら歌をうたう。怨霊はこれを聴いたのち、怒鳴を鎮めつつ消えてゆく。静寂の薄明のなかに朝鳥の声が浮かぶ。…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(三十六)雨月3 白峯の夢

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墓の前での西行の歌によって崇徳院の怨霊が登場し、場面は夢の音楽のなかにいるような両者の対話へと突入する。歌に始まる夢の音楽は、生者の思考を連れ去り、魂を運び、死者の思いをこの命に与える。 「記憶を喪った現在と、だれの理性にももはや捉えられぬ未来を前に、私たちはいずれ生を終えるのだろう、せめてあと少し留まりたいとも、たまには戻ってこられればと思うことなく(W・G・ゼーバルト『カンポ・サント(聖苑)』)」。ヴァルター・ベンヤミンは言う。「ある日、魂たちは絶望へと目覚める。これが、すなわち、日記の生まれる日である」 。またこうもー「幽霊的なもののなかには、生命を生み出すすべての形式が、存在形式としてあらかじめ形成されている」。…写真と本文へ… to photo and read more…