February 2012
筋目書き(五)
寒い冬の山にかかる霧の風景を背にして、川に浮かぶ船のな かで眠る夢をみながら眠っていた。山を冷たく覆い隠す霧はあたたかかった。夢のなかでも寝ていたので、そういう場所にいるとおもうのが不思議だったが、よ く思い出せば、風景はどこかにみえていた。たとえば技術革新の夢というような夢とは異なって、音が 夢を現実に押し出してくるプロセスのなかにあるときには、いわば荘子の「胡蝶の夢」のなかに心と身体がある。音楽することは、出した音を聴くことを機軸と して、外側のすべてに支えられながら、存在が現実を照らし出す光を、弾いている手の感触を通じて心がつなぎとめ、身体の内側に光を保ちつづける行為であ り、音が消えてなくなっても音の光が内側に芽生えはじめている、そのとき無音は観念なのではなく、身体がもはや楽器を介さずに聴こえない音の夢をみてい る。この無音に聴かれるものは、身体の内部の形にならない生命の乱れのようでもあり、自律しながら規律された波の動きのようでもある。音楽の過程は無音か ら無音へと、どこかの夢にどこかの夢をつたえる覚めた動きである。写真と本文へ… to photo and read more…
筋目書き(四)
光は物を通じて影をうむ。光なしに影はなく、影なしに光はみえてこない。光の集積が底流している現実には、それだけ影がある。物質によって光にも影にも濃淡があるから、より世界は複雑となって、とどのつまり水に映る円い月のようにものとものの区別はなくなるかのごとく、全てがみえてくる。写真は光の痕跡、現実の影(あるいはネガ)であり、光が物質の動きを惹起しながら写真に何かをうつしだす。物質を介して影を聴きながら光をみる行為である写真は発見をもたらすが、発見は偶然の出会いから生ずる賜物であるといえる一方で、物質が光と影を宿しながら動いた必然的な軌跡がその姿をみせた一断面ともいえる。光と影の対立やその一方から他方をみるのではなく、光と影とが物質を介して分離しながらも混在している一瞬を記録する写真は、偶然と必然の接点にも位置する。こうして写真は光と影の接点である物質の、偶然と必然の接点に生じる運動を内包している。この物質のふるまい、運動の力によって、写真というネガが人間の感覚を通じて現 実へと再現像され、さしもどされるとき、写真に身体的な意味が生ずる。物質に情が宿る、情が物質にのりうつると知るのは、そのときである。写真と本文へ… to photo and read more…