November 2012
筋目書き(三十)
差異と反復からはなれた動く常態としての砂山。解脱から空、空から現成というプロセス、循環が一回であり、一回が循環である空華。 非思量、非存在、非意味、非差別、非超越。空と華が合一しふたたび離反していく運動。青山常運歩と而今、一瞬という永遠に立つ主体はうごきのなかで生きる。固定化し実体化された事象、常識からの離脱は言葉の切断と解体による読み直しの方法というより言葉の破格から生じた残余、言葉を疑いながら存在としての華に解脱立脚し言葉の筋目にうかぶ薄明の空において沈黙の結節点を残すことであり、音を疑いながら音を紡いでいくのは迷いのあらわれでなく残響に空をひらき音に時をつなぐことだろう。空において華を時へ連関させる、あらゆる関係性の網目、縁起において存在が時となって流れだすとき音に呼ばれたみえない空華が生起する。山のうごきは数ミリの砂の微細な無数の流動であり、百分の一秒は山をうごかす。写真と本文へ… to photo and read more…
筋目書き(二十九)
存在へとむかう意識を解放し存在からはなれていく。たとえばジャコメッティの極小の男、あの立像へと意識が向かっていくような音の過程とは反対に、立像に近接した地点にはじめから立って存在の骨格から意識をはなす。振り返れば男はますます小さく微かに空間に浮遊し幻影すらみえない。目標点あるいはうごく立脚点すらを失った意識はうすれていく。だが意識が遠ざかっていくほどに、男の側からではなく複数の方向からからだを包むように音が聴こえだす。闊達な脳神経をやり過ごし存在の骨格を浸さないよう気を配り、伝達通経路としての柔らかい脊髄の反応を聴きながら弾く。骨格の外側、だが脊髄の内側でもあるような空間的矛盾点を時間が裂く時空の非統一場に解放され、存在の骨髄をまわりながら骨格を離れていく身体の言葉の密度の高い呻き、だが浄化された水のように響く音が。そして音楽の終結音が外部の微かな現実の音に映しだされる、内部の音楽が外部の音へと逆転写される音の終結に立ち会うとき、あの小さな不動の男がいつのまにかふたたびあらわれている。彼はいまや現実の音によって歩きだす。この静止した小さな立像のような、浮遊しながらもはっきりとした存在の傍らで弓を弾く手を動かし始め、存在から離れることによってこれをゆさぶり立像を揺動させ、立像の動きを時空に招き入れる音楽のプロセス。そのためにあの立像の傍にいる日常を歩む日々の生地を丁寧に織っていくこと。写真と本文へ… to photo and read more…