「風の器/牡丹と馬」を観て

筋目書き(二十三)

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言語が普遍化され記号化されるほど経験そのものは忘却されていくのかもしれない。だが生の経験は常に自己を呼び出しては世界との平衡が新たに生じ動きながら変化する。突如ふり出した雨が静寂を破り沈黙が破られれば何かが語りだし、身体の誰かが語る。生まれた身体の言葉は青い稲の伸びやかに育つ棚田に自ずから区切られた畝のようにどこまでも動的に曲がり、微細な静的変化に満ちながらもいまここに立つ畝の磁場に鋭敏かつ劇的に応じる瞬間性を内に秘める。身体の光と闇が畝の交差点で交互に立ちあらわれ消え去るその間に間に言葉が空に浮かび上がり、身体は言葉の文脈や意味に束縛されずその色を鮮やかに逆転させる。一つの個体にとってかけがえのない固有の時間を刻み続ける世界は機械のように再現されることがない。やってきた自己は意思において平衡を打破しながら他者に生まれ変わる。たましいは身体の意思の言語に祈りが密着している場所に生じ、常に先送りにされた現実的未来を身体が感じている内部の自発的な運動におもえる。写真と本文へ… to photo and read more…