筋目書き(九)
下呂 gero (10), 2009
像帰像処なり、鋳能鋳鏡なり。
鏡に映る像は像に帰るのであり、鏡は像を映すことによって鏡である。像は能く鏡を鋳るのである。
<道元>
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筋目書き(九)
音楽が時の動きのうちがわに本当にあってすすむと、演奏の前と後では必然的に状態が異なっている。夢のようにあらわれた演奏後の静寂は、行われた演奏を過去に向かって観想する静止した空間ともとらえられるかもしれない。動く音の静止した余白に再び時間を照らすための空間、鏡としての空間が静寂のなかにあらわれる。鏡は演奏を鋳型としこれを鋳ることによって演奏が像として残る。この静止した像に跳ね返るように音の身体的経験が再び現実にかえされてくる。そして音楽において演奏 という行為がなければ鏡があらわれようとしない、そうであるなら、演奏するという動的な問いは、いかに静的な鏡の出現をもたらしうるかという問いに向かっているともいえるだろう。余韻にあらわれる余白、たちあらわれた静の鏡としての空間がそのまま動の像としての時間を切り結ぶことによって、演奏とは別の、その余白に過去の忘れていた何かがたちあらわれるように未来が切り開かれる。世界をファインダーでのぞいて撮られたフィルムを透かしみて、さらに静止したプリント写真をみる重層経験と似ている。瞬間が空間を要請し、空間の密度がこの圧縮された時間を際立たせ、さらに次なる時間の発火点として働く。歩きながら出会い偶然をつかみとる瞬間、シャッターを押す意思のプロセスが未来をたぐりよせる。時を経て過去へたなびく視覚の煙が未来を切り開く。
● 正法眼蔵の「古鏡」から。この「古鏡」という節は正法眼蔵のなかでもとりわけ難解なものであり、それを汲むことは私にはとても難しく容易に立ち入ることができないが、古鏡は映すものと映されるものが相似である、つまりは区別がないものであるような鏡、仏道を受け継ぐ根源的な消息、象徴でありまた実在でもあるようだ。これを噛みしめていると、「古鏡」の節自体が古鏡であるように思えてくる。心眼、自他、無名について等、重要な部分が随所にちりばめられていて思うところ多々である。文脈文意から多少はなれても、各々の言葉が深い含蓄をもって様々に存在を照らし出しているため、寸断された各々の言葉の断片に照らして考えをめぐらすこともできるだろう。今回は先に少し思うところを書いて、「古鏡」から一文を拝借してさらに書き直してから、最後に写真を選ぶ形をとった。
● 筆をにじませ、そのとなりにまた墨をにじませると、その境界があらわれるのが若冲の筋目描きだが、その連続によって白紙から絵として、やがて墨の静止した 空間が形作られる。空間はなすがままに無造作にできるのではなくまず何らかの構想があるだろうが、行為そのもののはじまりは白い紙への意思のようなものから立ち上がっている。この意思が最終的な空間の形成を瞬間瞬間にうながしている。はじまりとはずれていくように筆は柔軟ではありながらも、一つの身体の意思のようなものは、手の動きとは離れたところで変わろうとしないまま、現実に具体化していくプロセスを強靭に耐えながらじっと貫いて支えている。時間は空間に内部からまとわりついて動き続け、筆跡も当初の構想とはおそらくずれを生じながら変化するが、世阿弥の「離見の見」のように世界の側にたってこの意思を透かすようにして音のプロセスをみたとき、微視的にずれを含んだ時間は、むしろ写真にうつされたあの不思議な数十分の一秒の瞬間の出来事のように静止しているように感じられるだろう。逆にいえば、鑑賞されるとき静止しているはずの写真が動いているのは、手を動かした身体のプロセスのなせる業といえるかもしれな い。
● 音楽を聴いていると、時間が物質の変化によって定義されるその隙間から音がのがれでて、この定理を打ち破るように重層的に垂直性をもって耳に語りかけてく る。折口信夫の「斜聴」の概念はこのことを指すのかもしれない。音楽が一つの動いた時間のなかの耳の出来事でもあって、けれども音の消失によって空間が静 止してみえてくるような演奏が実際できないものだろうか。実在するともいえない経験であるような音が不思議なのは、その頼りなさがゆえに時空を動かしながらも、静寂のなかに静止した時空をもたらしうることだ。良寛の筆に感ずるものはこのかぼそくも芯のある音のやんだ余韻ような不思議な感覚で、良寛の筆跡を 見ながら演奏をしてみたいとどこかで思っていたのだが、どうしてそう思うのか理屈をつけようとしてみても本当には腑に落ちなかった。今回書いたことがこの 行為の動機付けになるかもしれない。定着された筆跡の空間から入って筆跡のなかを音が旅するとき、定着された動かない筆の空間が筆の余白に浮かび、筆跡が変貌した形で未来にたちあがるような奇跡があればと願いながら。これは診療行為と同じで予想や期待を時に裏切る起伏の多い対応を抱えながらの生活の訓練のようなもの、長くても短くてもよいが、この筋目書きも似た行為だろうか。わからないことを書く、まだない行為へのきっかけ。そして写真は過去へと向かいながら、未来へとすすむこと。
● 先日のこと、十メートル先もみえない豪雨と暴風、去るだろうかと安危に思っていると、しばらくして闇の雲のわずかな切れ目から紅色の夕日の光が差しこんできた。暗い空の色は桜のまだ固いつぼみの色と同じ濃さに染まる。空気のにおいの劇的な変化と屋根からしたたる水の音、存在が動いているのがこの目にもみえてくる。おのおのが勝手に振舞っているようにもみえるし、同時に共鳴しあっているようにもみえる。疲労した心身も休まる。また先日、タル・ベーラ監督の映画「ニーチェの馬」(邦題)を名古屋でみた。暴風の後の結末も、作りこんだモノクロのフィルムである点においても、この差し込んだ自然光とはまるで対照的だったが、どちらも判断すること自体の意味がなくなるような透明な鏡が余韻にあらわれる点では同じだった。前回の筋目書き(八)で生死について書い たことが表現されている気がして勇気を得た。映画のあとの家路、観想にふけるばかりだったが、批評を完全に超えたこの映画は写真のように静止していた。優れた創作は各々の心を逆照射する。ここでは長回しの内部のフィルムの運動自体が静止した離見を生じさせる。スペクタクルや離れ業ではなく、実直で綿密な空間構成をともなってフィルムの言語に忠実に貫かれているゆえか、内部の苛烈さが変転するようにたった一つの静止した誰のものでもない客体が浮かび上がっていた。ここに古鏡をみた。