筋目書き(十三)
下呂 gero (14), 2009
たとひ廻避の地ありとも、これ出身の活路なり。
而今の髑髏七尺、すなはち尽十方界の形なり、象なり。
<道元>
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筋目書き(十三)
音質を求めてテールピースという楽器の一部分をやすりで削ってニスを塗りかえす。黒と黄金色をまだらに塗る。削った木目の凹凸にそって黒がしみ込んで筆が一瞬止まる。そのとき迷う筆からはなれ、手で直接木目にニスをぬりこむと、削った時はみえなかった微妙な凹凸が色にのって突如浮かび上がる。迷いのなかに悟りがある、悟りは行為の過程に生ずる迷いがなければあらわれない。目覚めは結果でも目的でもなく、迷いのあいだにある、脱力したとき、そのときもう言葉のうちにはない時間のなかにただよっている。意識の追いつかない広く開けた空が、楽器の変化したいまはきこえない音のなかにみえだす。音質は外側から測れないが、求める過程のうちに迷いからのがれて不意に聴こえだしてくる。この音は弾くまえから聴き取られている、音は現実にあらわになるのを待っている。楽器を弾きだすというのは、あらかじめ生じた音を現実に返すことでもある。楽器をいたわるのは、未来の音を楽器の空洞、その空のなかに聴くこと。
● 正法眼蔵の「光明」から。「たとえ何らかのことがらを避ける余地があるとしても、それは光明から光明へと出る通路にいるのであって、いまのどくろ七尺のこの私の身、皮肉骨髄も、尽十方界の形をかたどるものである。」
●あまりにも忙しいが、ほとんど本能的に仕事をして、弾けるときは本能的に楽器ばかり弾いている。言葉が自然にあらわれるような余地も全くない。楽器もしばらく弾かない方がかえって新鮮でいいこともあるし、楽器の調整も実際は微々たる変化であろうとも、時々大幅に見直す。それでもある微かな差異をもっているだけで、気づけば同じ形をめぐっている。人生の最後に一つの詩を書くには、悪い時もそれなりの出し方をしておく必要がある。過程の繰り返しからしか詩はうまれない。詩は書くことを容易には許さない。たった一つのことを最後に言うために、明るく開けた場所と長い時間がいる。
●最近好んで通勤の車中で聴いているセヴラックのピアノ曲には、空の明るさと延々とどこまでも続く田園風景が、一曲のなかの音のフレーズのくりかえしだけではなく、一曲ごとに形を変えながら繰り返しみえてくるようにあるのが楽しい。セヴラックはたとえば風に吹かれる黄金の稲穂(セヴラックが曲を書いていた南仏ならひまわりなのだろう)の動きを、少し離れてみながら予感しているかのように聴こえる。稲穂の行方が彼にはあらかじめ絵画的静止のうちにみえている、それが音楽のなかでは次々動いて聴こえてくる。光から光、その通路のなかをただよう音楽。この作曲家自身が楽器のなかにいるかのようだ。