筋目書き(一)
下呂 gero (2), 2009
悟りとはひとすぢに、さとりのちからのみたすけらる。
<道元>
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筋目書き(一)
ここに言う「悟り」は「音」にいいかえられるかもしれない。「音とはひとすじに、音の力のみにたすけられて働きだす。」自らの音(悟り)にかき乱された心が、次第に音(悟り)の沈黙へとかえるとき、無心になることがある。無名性のなかに自己をおこうとせずとも、さまざまな情も迷いのすえに、やがて等しく無に帰するときがくる。情は自己を離れ、風となって時をただよう。そのときはじめて迷いのない身体の芯がうまれるのかもしれない。世界が一変しても世界は現 にあり続けるという苦しみ、赦されざることを何かに導かれて(それも自らの意図に反するように)赦していくという背理に生きる言葉。自己の赦しをもって自己を現実のなかに離脱し、何かが創造されていくプロセス。
●「筋目書き」とは、江戸期の偉大な画家、伊藤若冲の墨絵の技法の一つである「筋目描き」からもじった。線 で空間を区切るように形をあらわすのではなく、筆で落としてにじんだ墨と、次の筆の墨のにじみとの重なる場所に、筆を描くはやさと墨の濃度によって変化しながら、やがて時間をおいておぼろげに淡白く生まれるにじみの境界が、おのずからあらわれるという。作為は描く筆のなかにあるが、筆と筆の重なりによる筋目の境界は、作為のかすかに及ばない無為のうちに生ずる。若冲は自分の本当の理解者を千年待ち続けると綴った。筋目は分け目、おぼろげに浮かぶ境界にして時空を存在せしめるための手と心の節目、けじめでもあるだろう。零墨に重なる零墨が生じさせる筋目、主情とその余白の間に、時の溶け合うにじみによって 浮かび上がる、いまここにはっきりとはみえない身体の筋目のようなものを言葉で追いかけること。(そして若冲が墨絵と色彩絵を同時並行したように、音に観て写真に聴いていくこと。)しばらくは、道元「正法眼蔵」をめぐって、とつとつとではあるが綴っていこうとおもっている。