筋目書き(三)
下呂 gero (4), 2009
一耳はきき、一耳はとく、一舌はとき、一舌はきく。
<道元>
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筋目書き(三)
写実が真実を引き寄せるのは、人間が有機体として生きていることの背景に、無機質なものの動きを感じるときである。人間の理想と苦しみさえもが現実を写し取ることのなかに投機されるのは、人間の無機的な物質性によってこそ、経験という無垢なる生の出来事が生じるためである。心はその影であり、心が時空を一時つなぎとめる。世界を写実するとき(写真を撮るとき、あるいは音を聴くとき)同時に自らの心の動きに従うことは、もののふるまい、ものの内なる歴史を経験することに他ならない。無機的なるものへの祈りであり、ひいては人間であることへの祈りなのだ。
●「一つの耳は聴いているとき、もう一つの耳は語り、一つの舌が語っているとき、もう一つの舌は聴いている。」この言葉のうちにある艶やかな物質性のようなものが、ものとものとの触れ合い、経験ということを生々しく身体に思い起こさせる。たとえば蕪村の晩年の傑作といわれる「夜色楼台雪万家図」は、その静寂のあまり雪が雪の上につもる音までが聴こえてくるようなリアリティーによって、雪の下の家々の内部の生活までもが連想されてくる。鴨長明の「方丈記」は事実を言葉で伝え、その底流をなす言葉のリズムによって、事実以上に辛酸な真実を読者に語りかけようとする。どちらも写実の内部に宿る運動によって、記録性をこえでて、言外の真実、底辺をうごめく無機質な情感の切迫性を問うている。若冲も同様。脳が脳を物質としてとらえようとしても、たえずこぼれおちるようなものごと。それでも、その都度反芻しながら感じて思考し、記憶しようとしなければ存在せしめることのできないものごと。ある隙間を漂いながら動きをやめようとしないものごとの物質性が、無常を形成しているように思われる。無常観から現実が写されてとらえられているのではなく、写実が無常をひきよせている。写真や音の物質性は、手放すことのできない問いを常に抱えている。