筋目書き(三十)


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豊島 teshima, 2012



空は一草なり、この空かならず花さく、百草に花さくがごとし。



道元


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筋目書き(三十)


差異と反復からはなれた動く常態としての砂山。解脱から空、空から現成というプロセス、循環が一回であり、一回が循環である空華。 非思量、非存在、非意味、非差別、非超越。空と華が合一しふたたび離反していく運動。青山常運歩と而今、一瞬という永遠に立つ主体はうごきのなかで生きる。固定化し実体化された事象、常識からの離脱は言葉の切断と解体による読み直しの方法というより言葉の破格から生じた残余、言葉を疑いながら存在としての華に解脱立脚し言葉の筋目にうかぶ薄明の空において沈黙の結節点を残すことであり、音を疑いながら音を紡いでいくのは迷いのあらわれでなく残響に空をひらき音に時をつなぐことだろう。空において華を時へ連関させる、あらゆる関係性の網目、縁起において存在が時となって流れだすとき音に呼ばれたみえない空華が生起する。山のうごきは数ミリの砂の微細な無数の流動であり、百分の一秒は山をうごかす。






●正法眼蔵の「空華」から。頼住光子氏の解説を参考するなら、道元においては「空華」は否定されるべき迷妄や幻ではなく、道元が「空本無華」というとき、「空もとより華なし」と読み下すのではなく、「空であり本来的には無である華」と切断された語句と語句の切り結ぶ言外の意にあり、空そのものから今ここにある花としての存在が立ちあらわれる。存在の象徴としての「華」が名指すことの出来ない「空」に立脚しているを示すものとして、道元は空華を読み込んでいる。



●昨日の夕方、風が吹いて日が深紅色に空を染めながら沈んでいった。その夕暮れに子供と久しぶりに二人で近くの小学校の砂場で山をつくって遊んだ経験から、こぼれた砂山の風に吹かれる砂埃の様態からかきはじめた。今日は肌寒い雨で空は暗いが、書きながら、なぜかかつて訪れた中国の仏教の聖地の一つといわれる蛾眉山頂でみた黄色の太陽に光り輝く雲海と、険しかった下山の経験を思いだした。山に神が宿るという信仰は、一度山頂に立てば何となく体感される。登山者や登山愛好家も山への相応の境地があるのだろう。下界に下りて世俗のなかで暮らしていても時として死者が幻として音をはじめとする媒体に立ちあらわれる、その幻を単なる迷妄、狂気と決めることはできない。欧米におけるスピリチュアリズムの歴史も看過できないしこれからは脚光を浴びるだろう。



●道元においては現代に言う「存在」とは「華」に象徴されるのかもしれない。いまここの存在者と存在のあいだで、存在に近づいては離れていく存在者の往復運動に「空華」が生じてくるということだろうか。エックハルトの「離脱」は道元の「心身脱落」つまり解脱だろうか。そのようなことを思いながら、バール・フィリップスさんに再会して以来、道元の根幹をなすような言葉が頭を駆け巡っているためか、道元の言葉の断片をつなぎ合わせるコラージュ、継ぎはぎのようになりかけたのだが、そのまま書き通した。



●私自身も道元のいう「縁起」のなかにあって、空のなかに充満した関係性の網目の一部であるし、道元はきっかけにすぎない。変化し近づいては離れるための存在者が存在を呼び込むための、これまでよりは広い立脚点のようなものはかろうじて出来つつあるだろうか。しかし道元は斬新な言葉の破格によって、言葉におけるジレンマを見事に克服しているようにみえるが、私にとってはそうしたあり方は何か。書いていて行き詰まりながらつまずく感があったが、これも待つという常なる今の修行だろうか。



●言葉の訓練はそれが言葉であるから、無意識からのぼる意識を待ちながら、意識というものに対してより意識的でなければならない。そのことの過剰が言葉を推敲させ言葉から逃れようとしながら、それでもどこかの地点に言葉が定着されるのが面白い。音は待つことによって待ったなしだから、そこに生じた間はたぶん待つことでも開けることでもない。音のはじまりと音の間、音の間と音の終わりはちがう。一回だけの繰り返されない過程に何が生じているか。それゆえ言葉の生じかた、納得のされかたよりも内容を実りのあるものにするには数段階もっと待つ必要がある。いまの私にとって筋目書き十回分は、集中できる条件が整ったときに行う演奏一回分に匹敵する感じがする。やはり「言葉」や「音楽」は既成事実ではないだろう。写真撮影は何よりも偶然そのものを待ちに出かける行為。