筋目書き(八)


R0013360

下呂 gero (9), 2009



生きたらば、ただこれ生、
滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべしといふことなかれ、ねがふことなかれ。


<道元>


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筋目書き(八)


人間はあらゆる存在の働きによって生きて死んでゆく。人は死の呼びかけへの応答、躓きながらあるく痕跡を世界に残しながら、死への抵抗として、死とともに生はある。生活に息づく日々の素朴な反復に生ずる微かな差異に、僅かな他者と死の到来に、一筋の輝きを得ながら生きる。音楽は死を他者とし、写真は世界を他者とし、医は人間を他者とし、身体の絶え間なきこの応答が生活の営みである。時空は日々の軸であり踏みながら動くための次元、音や写真はこの時空を足がかりに、頼りない知覚の痕跡や身体のはっきりしない記憶を通じて、だが確かに人がまだ生きている生活の場所を、死や他者のあらわれる覚めた夢のうちにつなぐ。医は愚直で俗ではあるがそれだからこそ聖なるこの生活の場に、人がありのまま変化に保たれるための行い、老子の「微明」それは無為の為、死に絶え間なく対峙し続けながら生きるための簡素で必要な行い。技術や思想は生や死のあり方に正に負に加担しても、生死そのものには決して及ばない。生死の尊厳は生活のなかに、はるか昔から忍びこんでいる。


●正法眼蔵の「生死」から。「生は滅するのではなく、生であるほかはなく、滅がきたらば滅であるほかはない。死に仕えることもなく、死に振り回されることもなければ、往生を願うこともない(石井恭二氏の訳)」生が滅することが死ということではない。世界そのものが生死渾然一体となった動きそのあらわれであるがゆえに、その逆説として生は生であるしかなく、死は死であるしかない。この巻は親鸞のために道元が書いて渡したものという説があるという。 ●生死は自他そのすべての存在のなかにある故に、いついかなるときも新らしい布をまとった問いとしてあらわれてくる。「私」の決意が知らず知らずにいかに多くの他者を巻き込んでいるか、このことに全く無知であることの楽観と軽さ、一方で他者に知らず知らずのしかかるその重さによって解離しだす人と人、あるいは人と人のあいだに徐々に培われてくる共感の気づきは、個人のおかれた立場や世代間の確執をこえて、社会的現実のなかにも感じられる。尊厳は人間をしばる根本教義ではなく、人間が人間たろうとし私が「私」として死ぬという私の決意に依拠した時代は終わっていくようにみえる。人間の尊厳は社会的にこそ追いやられているとはいえ、形を変えながら生活そのものにおいて、生きる人々に感じ取られつつこれからもあり続けるだろう。太古より人にとって生活すること以上の実質はなく、高度に細分化された専門性も必要であるが、これも他者との連携抜きにしてありえない。技術があたかも生活を牽引したり生死の尊厳をゆさぶるものとして、技術に過度の期待を寄せたり、そのおぞましさにみえない先の不安や不死の世界観をうたうというのは、生きることを直視しないがための錯覚にも思える。技術は人の生活を先どりするものではなく、技術が手を離れるように高度化し抽象化しても、やはり技術は生きているこの身体の生活にとっての初歩的な手がかりとしてなければならず、それだからこそ価値がある。いつ何時もまずはじめに生きていくことがあるのである。 ●夢は生活することに根ざし、生活の背景に遍く横たわる死が覚醒してくるあらわれのなかに生ずる。生死の場所に忠実なる映像は写真の断続的連続としてあらわれ、これに忠実なる音楽は音の断続的連続としてあらわれる。生活が生死を抱え込んだ現実とその実質である、その鏡として人は記憶と郷愁のなかをさまよう。このために記憶や郷愁はしばしば生の感触を有し、死の香りがする。写真や音楽が生死の実感に少しでもつながるために、自他に響じている身体感覚を通じて日々の生活の機微を感じ、変化し続ける時空を足場として、この実感を心や意識のうちに留めながら写真を撮り音をつむいでいくことが大事なのだ。尊厳はいつとも知れず生活のなかの生死にあらわれてくる。