筋目書き(三十二)
豊島 teshima (3), 2012
正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。
<道元>
..........................................................................................................................................................
筋目書き(三十二)
張りつめた冷たい空気に立ち、無限数の雪の粒が微風の乱舞に身をまかせて竹の葉に落ちるのをみる。各々の雪も落ちて合わされば個々のかけがえのない形の跡形さえなくなるこの現世の無常のなかに、雪の一粒一粒の声そのアニマのすべてを一挙に感受しようとする心のはたらき、粒子に仮託された光の痕跡の無数の束を同時に捉えるかのような心の眼が生じてくる。雪の儚さへの意識のとらわれが一つの契機となって個々の有限な雪の融解と次々と舞う雪の運動を静観しながら心は雪と言う名の無名となり、心となった小さな私が雪に潜む無限そのものを密やかに聴いている。夜の暗い闇のなかに灯された光に反射するように踊り散らつく白い雪に照らしだされ、降りつもった雪にしなる竹が何の前触れや規則もなく一瞬にして雪を空に跳ね返すとき、竹の反跳しながらきしむ音が儚い雪の挙動をみつめる心のとらわれ、個々の雪に宿るアニマへの情念をも解き放つ。このときもはや私であるとも言えない身体の内側に流れる鼓動の脈が深々とした寂静の残光に照らし出されて立ち上がる。写真的断続その無限大の時間を含みながら音楽的連続の有限の時の内側に呼びだされた世界。世界の一刻一刻と変化しながらも絶え間なく乱舞する形象をいまここに一挙に呼び出す瞬間の出来事。外側の契機によって断ち切られようとしながらその破れ目に呼応するようにいまここの身体のある限り自己修復し自生しながらつなぎとめられるいのちとその徴。良寛が<淡雪のなかにたちたる三千大千世界またその中にあわ雪ぞ降る>と詠んだ雪のあらわれは、空へ一瞬にして回帰する死の写真的時間と、空から緩やかにあらわれだす再生の音楽的時間の同時現成する二重の生命の言葉への徴、時という存在次元の写実であり良寛のあらわれであったろうか。
●正法眼蔵の「仏性」より。「正当恁麼時(真理が顕現するまさにそのとき)、内も外もすべてが仏性としての存在なのである」道元においては自己がさとったとき世界もまた同時にさとり、その空のなかで世界は現成する。それは同時に新たな自己の現成でもあるが、仏性という実体がありそれが無前提に担保されて自然にそうなるということではなく、修行を通じて修行者が世界をそのようなものとして発現せしめるということであり、仏性はそれがあるかないかという問いの次元のなかには存在し得えず、修行という持続、継続において常に新たなるものとして断続的に発現し続けるものである。それ故に自己は完結せず、実体化された固定的存在ではない。その不完全な恁麼のときにこそ顕現してくる何かがある。正法眼蔵の随所にでてくるこうした道元の根本的立場の変遷をみていると、道元は人間存在をあらかじめ保証してくれるような安易な霊魂の存在を否定し、それによる世界の絶対的肯定によって逆説的に生ずる自己の消極的態度を回避しつつ、自らが身を投じたさとりの一瞬の裂け目に放り込まれた動的な場こそに、悉有という流動変化し新たに発現し続ける時の存在、その全体の場をみている。
●数日前、東京から帰ると雪が深々と降っていた。私は良寛の詩を思い出して寒いベランダから家の前の竹やぶをしばしみていた。静かで心の洗われるいい時間だった。信じることは理性をこえた何かを信じるということではなく、何よりも自分の本来性、出自を取り戻すことであり、そのために修行のような自分を疑いながらこれを新たに信じていく作業がいるのだと感じていたのかもしれない。それが元来は不安定なものとしてある自信ということで、これによって自己を肯定できるのかもしれない。良寛は雪の乱舞の場に生じた悉有を「淡雪のなかにたちたる三千大千世界(みちあふち)」といい、またその動的変化を「その中にあわ雪ぞ降る」と結んだのではないかと想像しながら書いた。先に三千大千世界の出現をだしておいて、そのあとにさらに内部の動的な変化をうたっている点がさすがだとおもう。
●「空」ということの思想史も興味深い。まだあまり理解できていないが、インドにおいては空の否定的側面、つまり現世やものへの執着を捨て去る過程が強調され、中国や日本では空の肯定的側面、現象があるがままで姿を現すその根源こそ空であるというような空の肯定的評価と、自然のなかのそれぞれのものに命が宿るというアニミズム的な考えを背景として、現象世界である現世が元来聖なるものとしての価値を有するようになったとの指摘もある。空は色(現象世界)としてよみがえるのである。空という全く何もない場における動きが現世を肯定すれば現の一瞬の儚い灯火に永遠の真実のようなものが顕現しながら聴かれることもあるが、空が現世を否定しだせば現世への執着を捨てさらんと、移ろいの情や美からもはなれた終わりなき自己否定の修行がはじまる。瞬時にやってきたさとりは写真のなかの動きをみているように非常に長く感じる。長い時間をかけて修行し空へと解脱して帰ってきた現世としての色はさとりそのもの、死のように静止しているにもかかわらず音楽のように生きている時間だろうか。