筋目書き(五)


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下呂 gero (6), 2009



中夢あり、夢説あり、説夢あり、夢中あるなり。
夢中にあらざれば説夢なし、説夢にあらざれば夢中なし。



夢に夢の場があり、夢の言葉があり、言葉の夢があり、夢を語る活らきがある。
夢の中でなければ夢の活らきはない。夢を語らなければ夢の中の場はない。

<道元>


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筋目書き(五)


寒い冬の山にかかる霧の風景を背にして、川に浮かぶ船のな かで眠る夢をみながら眠っていた。山を冷たく覆い隠す霧はあたたかかった。夢のなかでも寝ていたので、そういう場所にいるとおもうのが不思議だったが、よ く思い出せば、風景はどこかにみえていた。たとえば技術革新の夢というような夢とは異なって、音が 夢を現実に押し出してくるプロセスのなかにあるときには、いわば荘子の「胡蝶の夢」のなかに心と身体がある。音楽することは、出した音を聴くことを機軸と して、外側のすべてに支えられながら、存在が現実を照らし出す光を、弾いている手の感触を通じて心がつなぎとめ、身体の内側に光を保ちつづける行為であ り、音が消えてなくなっても音の光が内側に芽生えはじめている、そのとき無音は観念なのではなく、身体がもはや楽器を介さずに聴こえない音の夢をみてい る。この無音に聴かれるものは、身体の内部の形にならない生命の乱れのようでもあり、自律しながら規律された波の動きのようでもある。音楽の過程は無音か ら無音へと、どこかの夢にどこかの夢をつたえる覚めた動きである。

●正法眼蔵の「夢中夢説」から。現代語訳は解釈がどうして もでてくるが、石井恭二氏のものをそのまま拝借した。 ●この言葉を読みながらこのように書いたはよいとしても、はたしてこれは果たすことのできないかも しれぬ演奏の理想に過ぎないのであるが、音に求めるところの一つである。倍音が持続して豊かに鳴るコントラバスで音を追っているとき、それは現在において 音楽といえるのかどうかわからないが、その音が聴こえているあいだ、儚い夢をみる。だが音と身体の距離感と音の夢と身体の距離感が一致しだすと、音のはじ まりと音のおわりの音が鳴っている「あいだ」の感じも次第になくなってきて、音楽が現実から少しずれた夢の時間だというよりは、音の押し出す現実のなかで 身体と心が旅して、音が消滅する頃には日常の夢にそのままにつながっていく感じとなってゆく。夢は無のなかでさらに記憶へと返され、夢がもう一つの夢につ ながる気分になるが、それは気分だけのことかもしれぬとどこかで想う。寝る前に鳴っている音と、朝に目覚める直前に鳴っている音がいつもどこかで繋がって いるのは、こういうことと繋がるかもしれない。だが、何度も夢のなかの音を現実におこそうと試みようとしたが、どうしてもつかみ取ることができない。音を つかんだとすることができない。この過程においては、音は自分の都合のいいように所有されたり奏でられるべきものではないどころか、そうあることすらが音 のほうから拒まれるのを感じる。音の有り様をこのようにとらえると、しまいにはおそらく道元のように「夢相は実相である、実相は夢相である」としか考えら れないのだが、ここまでいくのにいかほどの修練と時間がかかることだろうか。夢は未来への期待ではなく、夢は現在への疑いの世界でもないから、本当に夢見 ること(音楽すること)はあこがれるものの、大変むずかしい課題だ。しかし夢自体とは似て非なるものにしても、あこがれをもち続けることが、演奏すること を少なくとも促している。