筋目書き(三十一)
豊島 teshima (2), 2012
恁麼なるに、無端に発心するものあり。
<道元>
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筋目書き(三十一)
音楽と紅葉の季節にひたってさとりと迷いが空のなかで溶け合い眼に映されたモノクロがわずかに彩色しだすとき言葉は聴こえない音のようだ。艶やかな光の揺らぎ、木の影が風に揺らぐ家の壁面のようにいつまでも変化しながらうす暗がりのなかに消えゆく時空に漂い、沈黙がやがて闇につつまれる動きに僅かに抑圧されながら言葉の膜だけが身体のなかをうごめいている。そして突如降り出したような雨氷のごとく言葉の時が満ちてくるとき時は静止し、生のなかの死、死のなかの生をみる。泡沫や幻影も常住からの虚妄な離脱ではなく常住こそが無常であり、空は自己否定の究極的ニヒリズムではなくインド大乗仏教の空の思想化と論理も有の為の無であるかのごとき、まるで常世に生きる蛾や蝶のみている世界、死後の世界のような空から生まれた曼荼羅のように幻は現に輝きだす。神秘体験は仮想曼荼羅に浸って行為するは愚か、無常すなわち常住の世界なかに突出してくるように感じられてくる、そうであるならさとりとは手に入れるものではなく目的でも動機でもない空と同化して溶解する未来を受け入れながら未来へ進み出る能動の動きのなかで光を放つ一瞬。光の満ちた空や海の青色、それでも自己否定を繰り返し洗われながら現れる青色と青色のあいだが生死の深みと複雑さを人間に現成させる。曼荼羅は教えよりもむしろさとりの現出された形、さとりと知ることのないさとりから目覚めた一瞬に曼荼羅がみえる。無の風は有の音、音楽は空と無常の無目的な曼荼羅の現成、青と青のあいだ、光の死の闇の隙間に輝き映し出される木々の彩色が映しだす言葉は、眼に聴こえだした内部の音の曼荼羅その芽であるだろう。
●正法眼蔵の「恁麼」より。「恁麼であるから、いわれなく発心するものがいる。」 自己を成り立たせる立脚地、だが固定的な自我、自性をたてない地点にいる、すなわち無常であるからこそ恁麼を体得しうる。恁麼(いんも)とは唐時代からの俗語。「そのように、このように」という副詞であったものが転じて禅では形容詞的な意味「このような、そのような」を持つようになり、さらに名詞化して真理を端的に表す言葉としてあるという。禅においてはこの曖昧な言葉のうちに、真理は言葉によって説明し尽くされるものではない点と、現実を超越したところにあって現実から絶するものではなくいまここにすでに「このように」現成しているという点から、真理というものを端的に象徴しているということのようだ。
●空と曼荼羅について思っていると飽和されるのでもなく無になるのでもないのに何も書くことがなくなってしまう。だがあるとき音楽を聴いてさとることがある。何かをさとるのではなくさとりはその過程のなかにすでにある。これに従って書き出すと、一気に言葉が出てくる。
●道元の禅に影響されて、この身体を引き受けながらもうすこしさかのぼっていくと、はるかインドの大乗仏教、龍樹とその周辺やその極めて厳格な論理的思考について少しずつ学ぼうということになってくる。情緒的無常観ではなくそこに貫かれた生死、あるいは世界への論理は無常とはなにかということにあらためて眼を向けさせる。政治は現実、常住を主要な議題としてあつかうのは当然であるにしても、無常や空のような自己否定の論理を経た曼荼羅、そういう様態を現に等しく照らしてあつかえないのだろうか。書いていて道元を経て、空海が聴こえだしてきた気がした。道元もそうであるが、空海は実業家でもあり政治的手腕もあっただろう。そして空海のころも仏教あるいは儒教や道教の影響を受けながらも土着的なアニミズムの影響をどこかで必ず受けているはずであり、この接点を見いだしていきたいものであるが、まずは道元の厳しい禅精神のなかではいかなる言葉によって書かれているのだろうか。
●齋藤徹さんの紹介で、ドイツ在住の Sebastian Schaffmeister さん というベース奏者の方から、思い切って400枚をこえるソロ演奏を中心とするコントラバスアルバムコレクションを昨今譲り受けた。いつになるかわからないが、いずれこのホームページでもこれらの貴重なコレクションを何らかの形で示せればと思う。部屋を改造してCDプレーヤーも修理の他、データの読みとりまで調整してもらい、非常に状態の良い音を楽しむことができるようになった。世界には様々なベースプレーヤーがいるとまず実感した。こうして一週間ほどベースばかりきいていたので、これと対比して今日は体調不良で仕事がおわった疲れた耳でアンドレ・ジェルトレルとヨゼフ・スークのベラ・バルトーク「ヴァイオリンのためのヴァイオリン二重奏曲集」や、カール・ズスケのあまりにも格調の高いヴァイオリン、バッハ無伴奏をきいた。低音から高音へのダイナミックな対比は耳に単純に心地よい。高音のなかに和音の支えとしてではない低音の感触をもった響きが聴こえる。高い低いより音の密度の問題だろうか。音楽を求めながらいままでどうしても本当にはわからない、そのようにどこかで思っていた感覚、音楽は楽しむものだと、いままでよりもはじめて深く思えた、とすれば自信にもつながるだろう。その楽しみとは大乗仏教にならうなら空からの現成として。そうならば耳も眼もきっとより意識的ではない水準で何か遠いものを聴きだすことがかなうかもしれないだろうと。いまだにバール・フィリップスさんとの再会とこの「セバスチャンコレクション Sebastian collection」、その経緯が何かをもたらしているように思える。