筋目書き(二十七)
名古屋 nagoya, 2011
生は来にあらず、生は去にあらず。
<道元>
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筋目書き(二十七)
分化し、二度と戻らない人間の自然をこの内部に見つめるなら、死の克服に取り憑かれた意思や夢の技術に対極して、生の儚さや微明のなかにこそこの身体を浸さなければならない。静かな空間と音色の質感を小さな条件としながらも、生の手まえで静まる凪風を契機として体内を風の音が吹き荒れ、生の欲望が死のエロティシズムに洗われるように変容しながら無に退歩してゆく身体のプロセスのなかで、つつましくもどこかはっきりとした口調で、生まれることのなかった胎児の言葉が音に呼び出されてはこの欲望をなだめようとする。死者に贈られる生きて輝く花が惜しまれるように枯れて、姿を変えながら死へと同化して還っていく、そのように静かで遥かなところから到来してきては形にならないままに消えていく束の間の音の時間にひたりながら、絵になる手まえの空間、だから決して世界にそのまま刻印されない空間で、生死のあいだにただよい浮かんでいる皮膚のような生地に織り込まれているぼんやりとした影の花のかたち、死者の音の光をはっきりとみとどけること。
●正法眼蔵の「全機」より。友人が亡くなっても、いまだこの世を去った気がしない。あるいは、ありし日が幻みたいに嘘のようにおもわれる。生まれてこなかったものが音に呼ばれて出てくる、そういうことも実際ある。これほど音楽的な体験はない。東京で何人か集まって話し、花を贈ることにしたのだが、花を贈る過程はとても音楽的だと思った。夕方にベランダに出ながら一人で深呼吸して、隣接する部屋で海童道祖の法竹をならしながらきいた。曇りの薄明のなか、鳥が群れをなして巣に帰っていく。あまりにもよかった。