筋目書き(二十八)


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犬山 inuyama, 2012



自己をならふといふは、自己をわするるなり。



道元


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筋目書き(二十八)


いまここの満たされた不完全さ、そのわずかな差異の音が人生に染み渡って時空を染め上げること、わずかな音とわずかな時間で表現し尽くされる短い俳句のような、静止した音と沈黙の間隙をぬっているのは人と人のあいだの、人間の混沌の上澄みをすくいとる澄みわたった動き。寸前の音の記憶ともちがう一瞬の一音に浮遊するすべて、凝集された一枚の静かな写真、間に浮遊する音の断簡。音の動きと音と音の間に映された止められた時間に開かれた一枚の曼荼羅空間。大袈裟ではない生の凝縮された密度の高さ。横に行き来し縦に語り弾き継がれる絹の道。誰もが誰でもなく、何者もが何者でもない場所で、いまここにある存在の偶然の出会いが時空の内部で傾斜し衝突しながら作用して生じる音。外部、すなわち内部と内部のあいだで何かがこだまし、混沌が混沌自身によって内側に沈静化されながら微かな音となって外側に飛び出すように沈殿しながら消え去る。音によって存在しだすのは人と人の間にある何か、音に投げかけられ間に浮かんだ問いが、人間性をこえた人々の間にただよい浸透する、問いそのものが即座に答えであるような音楽。





●正法眼蔵の「現成公案」から。自己と他己が連動するための極意ともいえるだろう。下記に旅を記した京都でのバール・フィリップスさんとのひとときを振り返りながら、ここ数日、この有名な格言のようになっている道元の言葉が頭から離れようとしなかった。私にとっては当然の身体的課題ともなりつつあるが、実践は相当難しい。




●道元において自己や他己とは人間だけとも限らないが、「人間」とは人の間とも書く。形象された何ものかと、いま形象している何ものかのあいだにある何かについて、バールさんの演奏は深く感じさせてくれた。それは今と今のわずかな時間的差異というだけでなく、その時間的差異のなかに混沌自身が混沌自身を浄化していった果てにある純化された上澄みの音であり、その偉大な不完全さが空間を満たし、人生をかけた空間の密度の高さによって時間が静止する。それは、生と死のあいだにあるものと近接している。




●バール・フィリップスさんのこと


10月17日、私が高校時代から尊敬しているベーシストで現在来日されているバール・フィリップスさんのレクチャーとデモンストレーションを京都の同志社女子大学に家族と聴きにいった。

私のコントラバスの師である齋藤徹さんとの出会いなくしてこのバール・フィリップスさんとの出会いはなく、ずいぶん前になるが、神楽坂の「セッションハウス」でバールさんと齋藤徹さんと井野信義さんのトリオに私を含めたベース数人で参加させていただいた。そのときバールさんのとなりで演奏した経験は何よりも得難いものとなっているし、私の誇りでもある。今回も齋藤徹さんが大変尽力されて、ありがたい日本ツアーを立ち上げてくださった。今回、バールさんとお会いできたことに、そして徹さんにもあらためて深く感謝している。

レクチャーのあとで京都のインド料理、レストラン「ムガール」で私の家族とバールさんは一足先に、あとから徹さんと、ツアーに同行し全面的に尽力されている齋藤真妃さんとお会いして久々に夕食をともにすることができた。「ムガール」の店主は私と徹さんをつなげてくださった富樫(旧姓)花代さんの夫でもあり、私たちを気持ちよく迎えてくださり、名店だけあって料理も最高で価格もリーゾナブルだったからぜひ紹介したい。

バールさんがレクチャーのあとのデモンストレーションで、写真や絵画のように「時間を止める」ということ、それもずっとフランスの自宅で実践しているという毎日の演奏をその場で披露してくださったのだが、一見しただけではものすごく地味な内容に聴こえるのかもしれないが、大袈裟ではなく私はそれがいま、私の望んでいる音のあり方と酷似していたことに感動のあまり身体が熱くなり涙を目に浮かべて聴いていた。自分はいまこれでいいのだと、どこかで確信しバールさんが同じことを実践されていることに気がすこぶる高揚したのだった。これは先日東京で「風の器/牡丹と馬」の公演をみたあとの感触と似ているところがあって、励まされたのだと思う。

食事を待ちながらバールさんにつたない英語でその感謝の思いと、そして「時間を止める」ということが写真を実践している私の課題と深くつながっていること伝え、言葉ではそれが言い尽くせないこと、一瞬は永遠でもあることなどを話した。バールさんは笑顔で「それをベースでやったらいい」と言ってくださった。私はまさにそういうことを考えている時期なのだから、とても嬉しかった。

バールさんの演奏から私がいまあらためて学ぶべきことは、このように私がいま強く感じつつあることをそのまま実践していくということだ。つまりは生き方の問題である。写真家でもなければ演奏家でもなければ医者ですらもないということ、その地点に立ってすべてを、レクチャーにあったように明日の為にではなく今日の為に、日々行為していくということだ。

何かの発表のためではなく日々のための行為。発表するのも過程のひとつ。そのことをバールさんはあのわずかなコントラバス即興演奏のみで示していた。そしてその背後に膨大な経験と毎日の鍛錬があり、楽器を少し弾いたそのわずかな時空間、その音の背景には恐ろしいほどの人生の密度が感じられた。得体の知れないこの感動は、バールさんの人生と生き方こそがもたらしているものだろう。

京都からの帰り、車中では楽しんで満足した小さな娘はすやすやと眠り、私は運転しながら妻とその人生を想像し話していた。その人生は決して以前ほどには私から遠くてわからないような場所にはないということも感じられた。バールさんにあこがれていた自分も高校時代からすれば二十年以上生きてきたし、大地震や原発事故もあれば大切な友人も何人か亡くなることもある。そんな感傷にも浸りながら秋の夜のすがすがしい小雨の高速道路を走った。

私は大垣あたりでバールさんの音のあり方、実践の仕方を振り返ってみて、良寛の晩年の筆のあり方、それも筆の全体ではなくて一文字の骨格を思い浮かべていた。骨格に全くゆらぎがないのに筆の線には浮遊した何とも言えないゆらぎがある。その余白、文字の形象の空間的余白ではなく、線が空間を限定すること、そのあり方によってもたらされる残響のようなゆらぎこそが空間にひたひたと浸透するのであるが、人間の骨格がなければできない。人間を磨くこと、人生を生きることが人間(じんかん)に、文字の余白にゆらぎとなって出ていく。そのあいだにある輝きを音に撮む。バールさんは人間が人間であることを音楽において実践し、そのことにおいて人間性とうたわれるもの、さらには人間そのものを明らかに突き抜けていた。大垣は芭蕉の「奥の細道」結びの地だったとおもう。

即興は旅であり、それだけに成熟するには年月がかかる。だがよくしてみればそうしたことは、よく生きるためには当然であり、自然のことだろう。正義の主張や自己表現の世界、また人間性の思い上がりとちがって、人をある一定の方向に導こうとしたり、あるいは人間の何かを投影したものというよりも、人と人のあいだの、何者かのあいだの、いまここにあるべき姿をその都度、音が指し示す。

その時その場に迅速かつ丁寧なくさびを入れる、つまり時間を止める行為であること、そのことに徹していること、だからこそはっとさせられながらも深い感動がもたらされる。そういう音の時空だった。はっきりと何かがみえた。風邪をひいていてもそれを楽しんでいる軽み。芭蕉の俳句に映し出される時空のようなものかもしれない。名古屋でちょうど芭蕉展をやっているから行こうと思う。

バールさんはこのツアー中に78歳の誕生日を迎える。私の父親と同年齢である。アーカイヴ作成もされるとおっしゃっていた。かつて、齋藤さんからバールさんにわたったとりわけ美しいベース「Gand & Bernardel」の写真を撮影してバールさんに渡したことがあるが、大事にしてくださっているという。

アーカイヴ、記録の保管はバールさんの場合、そのまるごとの人生であり、私たちの世代への大きな問いかけとなるだろう。そうであればこそアーカイヴは生きる。道元の「正法眼蔵」がそうして書き残されたように。そして問いが答えを前提として成立しているとするなら、人生を歩むことは問いかけることが同時にあるいは即座にその答えでもある、そういう速度のなかに私たちが生きているということでもある。そのとき永遠のなかに時間は止まる。だからいまここを離れて音が漂うこともできる。

以前、東京の高田馬場の映画館で、アンゲロプロスの映画、「永遠と一日」をみたのを思い出す。「永遠と一日」は、渋谷でみたアラン・コルノーの映画「めぐり逢う朝」とともに齋藤徹さんのコントラバスのレッスンのなかでも紹介していただいた。そのとき、幡ヶ谷の徹さんのお宅で、しまい込んでいた記憶が一気に吹き出した。今日までこの二つ映画は私の人生に大きな影響を与えていることもここに記しておきたい。

翌朝の診療で会話する自分の言葉がいつもよりどこか丁寧で優しくなっていた。私が何を考えて何を思い何を言おうが、バールさんとはそういう現実なのだ。だから、私は本当にバールさんを尊敬している。