筋目書き(二)
下呂 gero (3), 2009
青山常運歩、石女夜生児。
<道元(正法眼蔵「山水経」より)>
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筋目書き(二)
情は飛び、生き動きながら住処をかえる。情を感ずるために(あるいはその怨念を逃れるために)自己を離脱して空けようとするそのとき、書いていることや思っていることは概念たりえないどころか、書いたとき思ったときはもうすでに彼方へと飛び散っている。あらわれては消えていく瞬きのように、あるときは速くあるときは滞留しながら、情の飛沫が時空を飛び散っては身体に停泊する。残された言葉は、すでに情の宿主たる身体をはるかにこえている。書かれた言葉が情そのものを示しているのではなく(あるいは言葉に綴られることを情がゆるさず)、言葉の余白にこそ情の厚く切なる声が聴こえてくる。詩の言葉というものは、容易に何かに編み込まれるのを拒む場所をその永遠の住処としなければならないのか。詩の裏に潜む行き場のない情が、さらに考えるよう、それも無制限に強いてくるのである。
●「青山常運歩、石女夜生児」は、正法眼蔵「山水経」のなかで、ある和尚のこの言葉を足場に道元の論が展開されている箇所。この箇所について、あらゆるものは感覚や分別をこえて動き生きつづけていることを示す、というような概念的解釈も当然ある。しかしここでは、この格言めいた十文字の言葉をあえて今の主情によせ詩に見立て、詩がその言葉自体ではなく、言葉の裏に宿る情を感ずるためにこそ書きはじめられなければならないということを強く感じながら書いた。ある著書によれば、禅は「無理会」(悟りは概念を超えているから理解を超えている)だともいうが、そのような思考停止を超えるために「理会」(言語化)が必要だと道元は説いているとされる。 読むことが、言葉の内側を外側から解釈するに終わらず、言葉の内側から外側に赴き、何かの情と交わる動きであること。 音と写真でいえば、弾いたもの撮ったもののなかにはないものが、その余白のために弾き撮る行為によって、はじめて存じさせられることがあるということにあたる。