筋目書き(七)
下呂 gero (8), 2009
進歩也錯、退歩也錯、一歩也錯、両歩也錯なるがゆえに錯錯なり。
<道元>
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筋目書き(七)
他者との関わりのなかで、不意な出来事から自史やそれを形作る行為のすべてが崩れ去っていくとき、いまここに結実しているかにみえていたものがあっという間 に予兆なく消え去る。そこにあらわれる現実は、否定や肯定と反省の倫理によって、また悲しみの感情のなかに癒されるように片が付くものでもなく、身体の底の方からやってくるどうしようもない恍惚と不快感をともなった絶望と生死の葛藤そのものである。しかしそのときそこにはじめて、もう一人の自分の存在が新しくみいだされ自覚されてくる可能性がひらかれてある。自分があたかも死に立ち会っているかのような謎めいた何かがはじめて聴かれる。この恍惚の場所に段々とあらわれ、失敗や挫折の経験のなかにこそひらかれる生の感覚、自らを生きなおすための力が身体の奥底からやってくるのを感じているのである。決して定まらず、容赦ない変化に翻弄されていく現実は必然的に失敗を抱え込んでいる。それでもいつかそれと気づかないうちに、失敗から、死のような場所から、それだからいっそう自己を超えた発見と身体の知恵が、古い皮膚が剥げ落ち、皮の下に張る皮膚に象徴されるかのごとく蘇生されてくる内部の身体が、ここにあらわれてくる。失敗によってしぼられ、生き治される身体。私が私として死ぬことのできないというような不死の存在様式が遍く未来に広がっているのではない。世界は変わったが、得体の知れない不気味さが到来したのではなく、世界の現実が厳然として牙を剥いた今、再び目を覚ますときがきている。死を死ぬことによって私と離れたもう一つの私があらわれ、生を違う方角からみつめて新たな時間を個々がつくりながら、関わりのなかで失敗を生きていく。
●正法眼蔵の「行仏威儀」から。「進むも錯のうち、退くも錯のうち、一歩すすめば錯、二歩進も錯であるから錯の連続である。」生きている現実は言葉にすれば必ず失敗するが、それでも言葉にしていくこと、このむなしい努力を夢幻空華としてやりすごすことはできないとしている。ここでは「錯」を行為の過程のうちに生ずる失敗ととらえ、失敗は単なる過誤や誤謬とは異なると私は考えたい。 ● 最近の経験から書いた。何かに拘泥しすぎたり、その場をどうにか乗り切ろうと無理をしたり、感じているはずの不安を下手に隠そうとすることのなかに創造や生産はない。それでも現実の思いも由らない穴ぼこにはまって、そこからなかなか出られないことがある。難しいことではあるが、自分がある関わりのなかで何かを行為しているとき、離れたところから自分をみる自分がいなければ、行為や考えも道を外れたり、気づかないうちに誤った道を突き進んで穴の中から出られない。もう一人の自分もまた、外側や未来の時からいまここの自分をのぞいて見守っていてくれるような都合のよい存在なのではなく、他との関係のなかで常にいまここで変化している。両者はともに現実のなかを走りつづけている両輪であるのだが、自意識や欲望の肥大、あるいは他を圧勢するような過剰な情感や他者の情を排した論理によって、一方の自分の輪が外れて道からはずれ袋小路におちていく。両者の車輪の到達点は、ずれながらも究極的には一致すると微かに期待するにしても、有限なこの現実ではそう悠長にして楽観的でもいられない。二人の自分、この両輪を日常的に忘れてはいけないし、普段から実践しておく必要があるのである。 ●昨年末に八村義夫さんの音楽から学ぼうとしたことに通ずるが、あらかじめの予測や備えがないから対応力不足や失敗が生ずる、そしてその反省やその分析を未来に生かして再構築するという失敗の因果の観点だけでは不十分で、そこから一歩身をひいて、あるいは身をのりだして、日々の現実そのものこそが失敗の断続的連続であるという、別次元に存する時間の道筋を深く感じながら日々を実践していくことが必要なのではないか。写真と音楽はこの次元を自分の意図とは異なる場所で、白日にさらけだしているようにみえる。ホロヴィッツの晩年の充実したライブ録音を聴いた。励まされる。音への確信とまさに失敗の連続によって、異様な強度と感動を帯びる。八村さんも書いていたが、ここに学び、感じるものはあまりにも大きい。 ●「人は二つの人生を生きる」フェルナンド・ペソアのこの言葉は、はじめて聴いたときから深く響いた。世阿弥の「離見の見」という達識も思い浮かぶ。その本意を生きているあいだに理解したいと、書きながら思った。禅もおのれ一人では決して成立しないという。