筋目書き(二十五)
京都 kyoto, 2010
授記は自己を現成せり。授記これ現成の自己なり。
<道元>
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筋目書き(二十五)
写真は静止した細部を見ることを可能にする。忘却を忘れること。観察でなく見ざるを得ない物体としての細部。言葉が捨て去られていく罪の意識のなかに言葉を発見していくという背理において、外部の存在との偶然の接触が生きるための必然的契機となりうる。猫の死体の横たわる車道の狂気は、病に伏せる人間の肢体を慰め続けてきた飼い猫の眼のなかに透き通る遥か彼方に生きる光を映し出す。私は目覚める。呼吸を機械に支えられた筋肉の動かない病に生きる細い肉体の傍で叫ぶこともなくただただその眼で何かを深奥から語る沈黙の音が、この鼓膜をふるわせこの身体を屹立させるのだ。殺すな、お前がこの人を生かし続けよ。人間が動物を飼いならしてきたという人間の人間による人間のための論理。気配を察知するのは忘却されその記憶すらなくなったかにみえる存在を感受する原始感覚の目覚め。その境界に投じられた引き裂かれた猫の血みどろの死体。外部の一撃によって目の眩んだ瞬間に生じる自我の起源は、都合のよい記憶の箱にはなく人間が忘却を免れえない罪の意識のうちにあるのかもしれない。
●正法眼蔵の「授記」より。石井恭二氏の解釈によれば、「授記」とは「覚知しえた覚りを語句(意味の場としての語)に移して伝えること」であり、文章の書き手と読み手との間での同時了解の成立は「授記における覚りの現成(わかったという事態)」であり、人為的に設定された<意味するもの>の出現の強制力を退けるものであるという。また、水野弥恵子の注では「授記」はシンプルに「生きている真実」とされている。
●水村美苗氏の著書「日本語が滅びるとき」を読んだ。私にはとても面白くなおかつ感動的だった。久々に本当に眼から鱗が落ちた。だから思うところは多々あるが、道元同様これについてうまく書けない。はっきりしたことは、日本語もまた世界に誇るべき素晴らしい言語であるという一点である。