夢枯記003 Léon Francioli | Acoustic Ladyland

contrabass solocdplainis phare1990
http://fr.wikipedia.org/wiki/Léon_Francioli (wikipedia)


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一曲目「Fuite baroque(Léon Francioli)」はかなり聴かせる。

海のなかから何のレンズもなくぼやけてさしこんでくる太陽光をみた。海水が眼球に当たっている向こう側にはおぼろげな光の束がみえる。コントラバスの音が聞こえてくると人間の大きさが海の広さに吸収されてしまうように、音が空気の中に溶け込んでいっては消え去り、また光の束がやってくる。眼にあたってくる水の流れが身体を呼び覚ますように弦にアタックする弓のほとばしりがスチール弦の音の輪郭を与えることで、ぼう然としてはっきりしない空間のなかに誰かがただよっていること、そのことが水のなかの誰かに知らされる。誰かは誰かになりつつあるようだった。誰かが流れていく途上に光の散乱が生じながら、音は光と同じ道を歩むようになる。音楽が止んだとき、誰かは子宮の外に出ていく。誰かは誰でもなかったが、誰かはみな誰かで、音が止めばそれは私だった。私という余韻の中にいた。

音楽の内側の膨張する変化によって「私」が生まれる。「私」は聴き手でもあり演奏家自身でもあるだろう。そのときその「私」はある膜の境界のような皮膚のなかをただよっている。

異形や異端というには遠いが、ある音の純粋な流れのなかに音楽がある形をなしているように感じた。形があるかないかは音の反復によるイメージの固定化された時空があるかないかということではなく、身体的イメージが折り重なる襞がその音楽に存在しているかどうかで決まる。音楽にそれを包む皮膚ができているかどうかということが、その音楽に一つの決定的な質感を与えているように思える。音楽家の世界に対する態度や立ち位置はそこにあらわれているが、それを聴き取るには聴き手の態度もまた切実に問われている。