夢枯記013 Peter Jacquemyn | Kontrabas solo
contrabass solo/cd/logos publiek domein/2000
http://www.jacquemyn.com/
極度に集中しながら楽器をこすり、あてつけ、ものをはさみ、ずらし、はたき、強い生命エネルギーの、あのノイズに満ちていて、いったん場の流れのなかに入ればとことんまでその内部で生き切り、まるで何かから目覚めたように演奏が終わる。そうすることによって何かが空間に確かに飛び散っている。物質性を欠いた物質のようなものが生きた立体から飛散する、そういうみえないアウラが聴こえてきて、あちこちにみえてくる。Peterさんは彫刻家、美術家でもあるようだが、この音楽に僕は彫刻的な何ものかを思い描く。
むかしかなり傾倒していたジャコメッティも、最近よくみている円空の彫刻もそうだが、彫刻をみながら時を刻んでいると、その数十センチから数メートルの範囲の空間に何かが明らかに漂っているのがわかる。そして時間はまだかかるけれど、ピタリとはまる僕と彫刻の距離が各々の彫刻にはある。その範囲のなかで彫刻を眺めていると、そのみえないアウラと僕という身体が、まるで物質を忘れた物質になりきったような主客のない時空において共鳴しだし、その響きの動きは彫刻の内部へと突入していく。そうして彫刻と一つになるとき、僕ははじめて彫刻の側から世界をきいて、みることができる。ほのかに感じられていたアウラは濃密な存在のなかに見えだして、さらにアウラ自体が、そして実存や存在までもが消滅していくような感覚におそわれて、その経験が日常を洗い出す。彫刻家が彫刻に映し取った現実の一部が、現実そのものをその場所、その時間において普く新生させているのだ。
少し離れてこの音楽をみれば、彫刻的な音の輪郭に非常に富んだ稀有な音楽といえばいいのかもしれない。しかし、Peterさんにとって彫刻を制作するプロセスは、この演奏のプロセスと同方向にあるのだろうか、それとも逆方向なのだろうか。アウラの消失したこの日常に、場を呼びもどすための音楽、場を生じさせるための音楽というよりは、すでにここそこに場があって、それを一気につかみ取ったところ、場に音が存在していることを見いだし、それを楽器の内部に集中的に集めながら場の流れを身体に引き寄せていく感覚が、演奏の始まるまえのPeterさんの身体の基底部にたぶんある。場におかれている彫刻のようなものが、その場を一気に彫刻の中心部に向かって凝集させ、その引力によって彫刻内部にたまったエネルギーが外側へと一気に放射するプロセスを聴いているかのようだ。その爆発的な放射と解放のプロセスがこの音楽、音を通じたインプロヴィゼーションの独特なあり方として聴こえてくる。無論のことそれは感情の露出とは全く違うし、音の物質的操作とも全く違う。僕はそれをうまく言葉にできないもどかしさを、書いていてふたたび強く感じなければならない。
彫刻を見て彫刻に没入していくという経験を経たのちに、彫刻の側から放たれてくる音楽、僕にとっての彫刻という経験そのもの。その人間でもあって彫刻でもある何者かが音によって何かを言っている彫刻家の言語。それは人間の人間による人間のための創造的更新、歴史なのではなく、世界と人間のあいだにある彫刻から世界と人間を音にみることだ。いつかソプラノサックスのミシェル・ドネダさんの音に感じたものとも似ているが、人間のエネルギーに満ち満ちているが、それでも人間の諸感覚の範疇を超えない感情の内部エネルギーに頼りきったフリーインプロとは、どこか明らかに大きな一線を画しているような、音楽への大事な取り組み方が示されているのかもしれない。それでもなお、彫刻が人間的行為であればあるほど、その彫刻家であり演奏者はまさに一つの生きる彫刻となって音を放散し、解放させる。人間が人間として生きていることを、外側から与えられる仮想空間や感情の吐露によってではなく、身体内部からの生々しい現実の切実さをもって超えようとすることといったらいいのか。そしてその行為のはじまりと、またその遥かな先には、彫刻が、音楽があるのだ。
各々の演奏が終わるときPeterさんと一緒に、まさに同時に目が覚める。この原始という言葉すらわすれた音の終わりの状態に突入して日常をかえりみるとき、ジャコメッティが現実ほどうつくしいものはないと言ったように、日常の現実はあまりにもうつくしくみえる。無論そのうつくしさというものは概念的な美とは逆方向に形成され質的にも異なっているもので、また生きることの苦楽もこえているが、音楽によって蘇ったこの現実は、音楽することの意味を僕に強く問うてくるのだった。音の輪郭のあり方は異なるにしても、これに質的に匹敵しうるものは僕の中にいったいあるのか、それは何なのかと自問しながらも、僕はいまこれを聴き終わって言葉をこえたアウラのなかに入った気がして、この身体は興奮しながらも清々しい涙をながしているようだ。僕にとってPeterさんの音楽は、まさに動く彫刻であった。
<付記;2013/4/24>
齋藤徹さんが昨年のベルギーツアーでの写真を送ってくださいました。
ジャックミンさんのお宅2枚とジャン・サスポータスさんとのトリオ。
ご家族のお人柄や空気感のよく伝わる、とてもうれしくなってしまう写真です。
ありがとうございました。