夢枯記042 Peter Ind & Rufus Reid | Alone Together

contrabass, duocdwave records1998
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042peterindrufusreid


毎日車で通る木曽川堤防沿い、道端の梅の花が徐々に開花してきている。毎日通りかかるとどうしてか無性に嬉しい。国内外で世界情勢が暗い闇に放り込まれていくなか、花のさく生き生きとした変化を感じるだけで満たされてくる、そんな気持ちになる。ふだん以上に無力感を感じているいま、それでもおずおずと、久しぶりにコレクションから何か聴きたくなったのには少しでも意味があるのだろうか。少しでもじんわりとした楽しみを求めているのかもしれない。

なぜ音楽はあるのだろうかとあらためて思ってみても、以前ほど考えが浮かんでこないし、とりわけすすまない。ミズンの「歌うネアンデルタール人」のように、音楽が言葉以前に体に織り込まれているものであるとすれば、音楽を言葉で照射することもないようにも思えてきて、気が少し楽にもなる。一方で、音楽にはいろいろな役割があるが、それでも音楽は戦争に加担するものでもあるなら、音楽について何かを書いていくということはやはり大事だろうと思うこともある。人間にとって戦争は絶対的にはなくならないのかもしれないが、盲信的に凶暴化した精神や身体に異なる道を解放し示すための意識や言葉が、様々な事情や過程によって歪められた音にとどかなければならないと思う。

だがそれでも心はあるがままであり、揺れ動き定まらない。思考や感覚の生じているその場に影響されるし、影響されないほうが不自然にも思える。あるいは、また再び夢を見ているだけなのかもしれない。あるときは、この夢枯記を書き始めた頃のように、つかの間の夢を見るというためだけにいま僕にとっての音楽があるようにも思えてきもする。平和への希求が強くなる一方で、むなしく脱力するばかりのこともある。僕自身や人間の意識から全く離れたところで生じている自然の芽吹きを、まるで何か恐ろしいものから逃げるように夢想する自分自身がいるのも確かであると思う。だが、少々書くのが恥ずかしくもあるけれど、曲げてはならない信念や良心もやはりある。

こんな状況で、やはり楽しそうな笑顔に惹かれてこのCDを手にとった。PeterさんもRufusさんも数多くの著名なジャズマンと共演してきているが、正直よく知らなかった。ホームページをみるといろいろな顔があるようだし、まだみていないけれど、当CDはDVD録画も出ているようだ。ベーシスト、ミルト・ヒントンに捧げるとある。ミルト・ヒントンも実はあまり演奏をきいたことがないけれど、ジャズベースの基盤を作ったジャズの歴史にとって由緒正しいベーシストという印象がある。ヒントンは写真家でもあったらしく、ミュージシャンの演奏姿よりも舞台裏などに本当の彼らの表情があるとして、写真を撮っていたらしい。

オマージュだったり捧げ物というのは自己陶酔的になることもあるが、それを通過することによってこそ自他に開かれた演奏は大きな感動を呼ぶ場合もあるように思う。しかしながら、そもそもそういう自他への意識のようなものはこの演奏の眼中にないようで、強力な低音が左右のスピーカーから各々炸裂する。左がInd、右がReidだそうだ。能力が非常に高いのにそれが地道であり、腰が低いがためにそれほど目立たない人がいる。そういう尊敬すべき人に「腰が低くて素晴らしい」というと、「そんなこと考えてもみなかったよ」というなんともいい答えが返ってくることがある。そんな答えを聞いているような演奏にまずは聞こえてきた。

内部にそのままはいってゆけない音楽は、どこか意識的にきこうとせざるをえない。まさしく「ジャズ」であるこの音楽もいまの僕にとっては、少しそういう感触があった。やや演奏に距離を置くことにはなるけれど、その距離感でいることをもが手放しで許されているような安心感がある。だからかえってその距離感でいることが楽しい。聞いていて不安になる要素の入る余地はほとんどないようだ。音楽によって救われるのは、一つにはこれでいいのだ、これでよかったのだという自己肯定感を、それを聴くことによってどこかしら聴く側がもてるときなのだろうが、そういう感触がこのアルバムにはどこか低くも清く漂っている。それが実に腹に響いて楽しいのだ。

当然のごとくジャズのビート感覚やブルース感覚あふれた演奏が展開されているが、どこかに伝統を引きずっていながら偉そうではないし説教くさくもない。その真の通った味わいの中にあるものこそが伝統ということかもしれない。音数やテクニック、感受性の豊かさや鋭い音楽的な身体反応をべつに披露するわけでもない。目新しいことでひきつけたり、現場のスリリングさを特別に楽しむという感じでもなく、ふつうにきける質の高いジャズベースデュオの古き良い演奏といえばいいのだが、それでは言葉が平たすぎるだろうか。だがその平たい地平がベーシックに聞こえてくるのがうれしい。どこかのらりくらりしていているし、好きなようにゆるくひいて、自意識過剰にならずに普通にのっていてこれまた実に好感がもてる演奏だ。ここぞというときにいい間を取り、ジャズ感を味わうジャズベースのいわば王道にのっとった、非常にスタンダードなベースデュオを久しぶりに聞かせてもらった気がした。

人の表情や顔自体までが記号化されつつあるこの世界のなかで、このベースデュオは路上に咲く地味な花の光を放っているようだ。ベーシストとして、そして人としてこれでいいのだというものを堂々とやっているように聞こえた。大雑把なようでいて、そこには音楽の細やかな機微も、音楽によるコミュニケーションも、音楽ならではの間合いも確かに残されて身体にうめこまれてある。音のあり方が身体性を含めてある種の記号になりがちなデュオ演奏ではなく、記号や象徴ではない具体的な音の伝達のあり方が、伝統を背景としてしっかりとあるのが良かったし、ためになった。

ミルト・ヒントンの写していた写真はいまだかつてみたことがないが、普段見えないミュージシャンの楽屋の姿を記録しておきたかったのだろう。僕もかつてエルヴィン・ジョーンズの楽屋を少し写させていただいたことがある。パフォーマンスではこちらに笑顔を振りまいていたエルヴィンだが、楽屋ではタバコをふかし目つきが異様に鋭くて撮るのもやっとだった。ミュージシャンの間のいわば権力関係も垣間見れたし、そういうものが写真に写ってしまうことがあると知った。しかし写真の眼目は、写されたものの表象や記号を読み解くことだけにあるのではないだろうと思う。ふだん振り返ることもなくみることのなかったものをじっくりとみることに、より重きがあってもよいだろうと思う。このアルバムは僕にとって、みていそうでもみていなかったものが写された一枚の写真のようだ。音楽の象徴化や記号化は一つの回路に人々を回収し、多様であるはずの道を狭める可能性があるのかもしれない。一方、具体性の質を保持しながら削り取られるようになされる抽象化は、そこを原点として光を逆照射し、むしろ多様なベクトルを促し、示唆するように思える。

そして具体性はむしろ音の存在を際立たせ、その音楽がそこにあるという実感を身体の隣に呼び寄せる。平板で具体的な場所にその身体の際に立つものが不意に示されるとき、そこには演奏家の個性が見事に浮かび上がっている。それだけではなく、このアルバムは、ふりかえってそこにあった地面をもういちどみれてみればそこに咲いていた花、その生きた活力、半世紀以上繋がれてきた花の血、地の花の信念を思い起こさせる。楽なる音楽が生死のいとなみの内側でしっかりと、静かに激しく、清らかにビートを刻みながら息をしている。

(ホームページ作成ソフトの調子が悪く休止していましたが、当面は再開できそうです。)