夢枯記014 Nina De Heney | Archipelago

contrabass solocdkning disk2007



014ninadeheney

「アーキペラーゴ」というと、この言葉をタイトルに使って注目を集めた写真集もでていたし、最近の一種の思想的流行でもあるようでよく耳にする。あらかじめこの言葉とジャケットが気になってしまってどんな演奏なんだろうと思いながら聴き始めた。

アーキペラーゴは群島とか多島海をさすということだけれど、僕自身はこの概念の推移についてはあまりよく知らない。写真論のイメージが僕のなかでとても強かったヴァルター・ベンヤミンの写真論以外のスリリングな文章を最近ときどき読んでいて、行き当たったのがマッシモ・カッチャーリの「必要なる天使」という本で、これがおもしろいのだが、「アーキペラーゴ」はイタリアの思想家であり政治家でもあるこのカッチャーリの概念でもあるようだ。多様性とか他者に対する寛容性とかを含んでいて、帝国主義的な絶対に対する相対化の方法的概念の一つなのかもしれない。一方で地理的にイメージするのは、日本やインドネシア辺りやカリブ海などの島々だろうが、多島海というのは一種の相互的な文化圏でもあって、主たる島とそうでない島という分け方ではなくて、地理的で空間的な区切りやその境界を語るだけでは片付けられないような、既知にとらわれている見方では見えないところを様々な連関において広くつなげるあり方、そもそもが空間を超えた広く大きな人間的活動の器たる場所から、様々なものをみてみることなのだろう。

アンプを介したブーストの効いた音で、ミニマルミュージックのような、というと多少語弊があるのかもしれないが、僅差の差異の音構造の展開、間の伸び縮みが展開されながら、ピッチカートでそれぞれの旋律が前後の流れをからめとりながらうねるようにすすんでいく。音数が少ないものもあるし、弓を用いたパターンも聴こえるし、鈴のようなものを持ちながらの演奏もあって面白い音も出ている。ここに聴こえるのはこのアルバム全体が一つの群島、アーキペラーゴとして位置づけられている、またはそういう曲の配置をなしているということかもしれない。一つ一つの曲はその島々の各々の様相であるけれど、その一つ一つの出自はいつの間にかアルバム全体世界に帰属していきながら、アルバムという大きな空間内にそれぞれが配置される。次第にそういう感覚が芽生えてきて、アーキペラーゴへの思いのようなものをたしかに感じとることができる。それぞれの曲に音のあり方がそれぞれなされたけれど、その名が名を呼び、連関しあう場所がある形を形成することによって、このアルバムが一つの多島的空間としてあるように聴こえるのだろう。

しかしその連関しあう場所とは、よりつきつめると何なのだろう、それは演奏家自身なのではないだろうか、振り返ると聴きながらこの点についてはどうなのだろうと僕は感じてもいたようだ。見知らぬ土地にいって写真を撮ってきてならべて、アーキペラーゴといってみても何だか外側の概念が先走りしてしまって、その意図とは逆にせっかくの写真が発掘的な行為にすらみえてきて、僕には概念が写真自身を凌駕してしまうように思える。そんな感覚があったから、多島的なるものは外側から概念的に切り取られた空間ではなくて、むしろ各々の演奏家が内部に求める複数の中心だと言ってみてもいいのではないか。そうしたとき、多島とは時間的な位相をかかえて、もっと複雑に変化し、言語的であり、ともすると弱い個がその個をこえて境界をのりこえだして、自己の内部の他なるものに対して希求的になるのではないだろうか。さらに希求が希求をこえれば他者への寛容がその場所に導かれ、他者にこそ自己の出自をみるようになるのではないか。弱い個人が変化に富んだ強いつながりを見いだすそのプロセスが、内なる多島世界、アーキペラーゴ的精神を宿しているのではないだろうか、それなくして生きた多様性もないだろう。何かへと到達していく様々な時間的な内部過程と、それによって到達された空間的な形、そういうあり方が多島的なるものではないかと考えはじめていた。こうしてみて、この演奏が僕のイメージのなかのそうしたアーキペラゴ的な時間を宿しているかというと、そうは聴こえてこなかったのだけれど、よく内ジャケットをみてみるとそれぞれの曲のタイトルがこうあった。

(1) NO、(2) WO、(3) MAN、(4) IS、(5) AN、(6) IS、(7) LAND、(8) NEI、(9) THER、(10) AM、(11) I

たしかに全体のアルバム空間については、この文字列にあらわれているように多島的なるものを示しているようだけれど、気づいてみれば「No woman is an island, neither am I」。このアーキペラーゴは彼女自身を入り口とはしていなかったし、中心のない拡散のようなものの集積ということだろうか。Nina de Heneyさんの示したかったことは、僕の考えていた私という時間から空間へのプロセスを介したアーキペラーゴとは反対に、音楽という時間を空間へと分断するプロセスだったのだろうか。もう一度聴くと別の聴き方ができるのかもしれない、とふと思う。