夢枯記021 Jonathan Zorn | ContraBass

contrabass solocdnewsonic1998
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021jonathanzorn

Yumegareki 021
It might have been a coincidence, but the music started to flow from the speakers just like a continuation of my performance in seconds later. Going inside the differences, exploring the path that flows as a shared quality, or encountering any foreign elements squarely, a space-time without any differences emerges and opens it up.  I wonder this can happen only by luck called a fortunate coincidence. Each piece of texture that music conveys to our ears doesn’t form a solid shape.  It seems to come together and drift away, just like moving in a mesh of membrane in our body.  Is it possible to create music as a catalyst to flexibly dissolve the differences among us via this membrane circuit? For that, a keen sense of relativity to perceive the incomprehensible level of the pain of others and a soft lateral mutual trust on the physical level may be required.  As a first step, these should be incorporated into the sound to a full extent.


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時間があっというまにすぎていく毎日だが、この日曜は朝から一人で家で休んでいてこの湿気の中、起きてパンを少しかじってコントラバスを何十分か気分も乗らないまま弾いていたが、どうも違うとおもってやめてしまった。そこで何か強烈なものを聴きたくなって、あらかじめ未知なアルバムが目の前に400枚もあるという幸運にあやかり、コレクションからジャケットをみながらあさって、演奏者自身と思われるこの巨人を眺めながらかけてみた。

裏ジャケットではこの同じ巨人がどこまでも大地の彼方まで無数に立っている。ベーシスト、この顔の表情からするときっと冗談ではすまないデザインで、自他の問題や大地ということ、さらに宇宙や未来のようなものを予感させるなとはじめは思っていて、聴く前からもうそこまで言葉が出てきていた。いいことかどうかはケースによるが、それだけ聴く側の状態とジャケットイメージに言葉があらかじめ限定されているともいえる。それでも、あとで第三者的にいわば自他を殺して書くことより、書くことが多くなっても、音楽の夢の枯れるか枯れぬうちに書く初々しい矛盾に満ちたことを書いて、伝わりにくそうなところを少しなおすくらいがいいように思って何とかやっている。

しかし、今日はちょっと特別な過程があった。数秒の無音のあとにかかった始まりのモチーフは、さっきまで自分の弾いていたものの最後のものと音質は違うにせよ、音程まで全く同じで自分の演奏の延長がスピーカーからでてきたようで、こんなこともあるのかと全く予期せぬことにかなり驚いた。かつて齋藤徹さんからゆずっていただいて、譲ってもらうというのは金銭のやりとりではなく魂を授かるようなものなので、いまも大事にしている弓が一つあるのだが、この弓が僕を通じて僕の楽器で語るものに、このJonathanさんの音楽の質感がどこか似ているように聴こえてきて、Jonathanさんの弦はスティールで僕とはちがうけれど、まるでその弓でもう一つの自分の楽器をすべらせているかのように聴こえてくる。違う身体だけれど、僕が楽器と弓をかえて弾いているかのように。音楽のもつ魔術に、初めの数分、はまってしまっていた。

おそらく偶然だとはいえ、音質が全く違うからという理由でもなく、数分で全く本来これは別物だとわかってきたのであるが、裏ジャケットの複数の人間のようにあえてどこまでも連続したものとしてこれを聴きつづけていると、一個人の表現などかなり小さいものにすぎないだろうが、その限界に否定的になるどころか、翻って両者が全くの別物とどうして本当に言えるのかと逆に思われてくる。「私」というものとJonathanさんのつながりができ、ある空間が不思議と開けてきて、それがこのジャケットに二重写しになってくるのだから、今朝の僕のように身体に閉じた限界を設定することの無意味さも知らされる。

こんなふうな過程を経て、人間と人間の差異をどうみるかという問いの立て方自体が問われてくるように感じていた。閉じている自己空間が、外側のよい契機によって一気に他者を通じて解放される可能性もあるだろう。しかし、そのときにこそ私にとっての他者も問われるし、何より「私」が、より深く問われてくるので、他者のアルバムには、たいていはいつもいまの「私」というものが強く照らし出されてくる。私と他者の差異からはなれて、異質であるということの見方から180度反転するように転回して、質感の差異をバネに開ける差異の消滅した時空を漂う経験は、なかなかできないが、厳密に考えようもないけれど、今日の私からJonathanさんへの音楽の連続という偶然は、はたして何であったのか、答えは見つかりそうにもない。しかしこれは全くの偶然なのだろうか。

少し冷静になって比較的大きな音量で聴き通して、アルバムを振り返ってみると、それだけというわけでもないが、少なくともノイズと倍音が強調されていて、ノイズ自体がずいぶん透明でいい音がしていて、質感がととのっている、あるいは何かの質感で統一されている。弾いているところをみられないので、音のちょっとしたあり方からその緊張度を推測していくと、かなり慎重な部分と、勢いに任せて弾いているところもあったり、完全な即興にもおもえてくるが、音楽の構造もあって書いたモチーフを興じているという意識もあるのだろう。そうした全体が一つの質感をもたらしている。付け加えておくと、Jonathanさんのいまのサイトではエレクトリックも使用しているようだが、この1998年のアルバムはこのページの音楽ともずいぶん異なっていた。

一人一人の演奏者が模索して確立しようとし、あるいは挫折し、あるいはそれをいわば脱構築して暫定的にもできてきたアルバムをすこしずつ聴いていて、音の「質感」ということはすでに一つの価値なのだろう。これが貨幣的あるいは量的で線形な価値の序列から峻別されるようにでてくる、演奏家も意図しないような非線形な音楽の時代的なあらわれとして、また、楽譜に記されえない音楽の最も大事な部分をあらわすためのあいまいな言葉の一つとして機能していることはあるのかもしれない。だが質感自体も、量に対する質という対峙の仕方をしなければ、動く膜のようなもので、絶対的なものでもない。逆に固定化された形というのは質感があるなしにかかわらず、質感が表に出にくい。形は質をごまかすこともできるし、質を暗に浮き立たせ印象づけもする。

アルバムを聴いてみてあらためて思ったが、そういうある感触、質感というのは、音自体の質としてもあるけれど、アルバム全体を通じたある種の身体的な形を為していて、そこに言葉がくっつくと、このアルバムのジャケットのように、あるイメージにもなるのだろう。思い出して、夢枯記(003)から自分の言葉をもう一度ひっぱりだしてみる。「形があるかないかは音の反復によるイメージの固定化された時空があるかないかということではなく、身体的イメージが折り重なる襞がその音楽に存在しているかどうかで決まる。音楽にそれを包む皮膚ができているかどうかということが、その音楽に一つの決定的な質感を与えているように思える。音楽家の世界に対する態度や立ち位置はそこにあらわれているが、それを聴き取るには聴き手の態度もまた切実に問われている」。021まできて、そういう聴き手たりえているだろうか。

一つの質と一つの異質をつきあわせたとき、その差異が強調され主張され意識されつづければ、たとえば他者の痛みは永遠にわからないだろう。わからない自他の痛みをも相対化しうるほどの自他への切実な意識と同時に、身体レベルの横方向のやわらかな信頼関係とつながり、その両者が必要だが、その動きの開ける契機としての音楽や言葉ができないものだろうか。そろそろ家にこもっていないで、梅雨空がようやく晴れてきた光にうながされて外へ出かけたくなってきたので筆をおこう。外には雨と胞子の粒の匂いが待っているにちがいない。