夢枯記025 Felice Del Gaudio | La via lattea (dal contrabbasso al cielo)

contrabass, cello, and otherscdrescd2006
http://www.felicedelgaudio.it/



025felicedelgaudio

Yumegareki 025
It sounded like a visual story by a bassist, depicting one of the contemporary dreams. Many were performed jointly with a cello. But within its storyline, a traditional singing voice was inserted effectively enough to appeal to my ears. The voice continued to resonate at a certain interval. Each time I felt like being pulled back to the beginning of the music. It made me feel as if I were brought back to when I was a child surrounded by unlimited time. I got a feeling that this music must be written with an awareness of the mother earth and children. The natural voice of the song sounded like the threads gathered all the way from the bottom of the earth, reminding me of an unheard vibration before the music starts. The vibration seemed to be in contrast with the reverberation that resonated at the end of the music. Without realizing it, my mind drifted to envision the wax and wane of the moon. In Japan, we will soon enjoy the harvest moon. If we are destined to live the reverberation of the age of human beings now, there should be a music that flows as if it were falling out of the complex reality, together with a voice of the wax and wane, which is seemingly idyllic but permanent in motion.


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ベース音楽というよりは、ベース以外の音とともに一人のベーシストが一つの現代の夢を描いた作品に聴こえる。チェロとの合奏やトラディショナルな歌をモチーフとした曲がちりばめられ、映像のない映画を見ているように思える場面もある。聴き始めたはじめのほうは興味がなかなかわかなかったのだが、次第にシーンを変えた音楽的な物語のような曲順に素直に耳がついていくようになる。最後のトラックは赤ん坊の泣き声から始まり、短く小川のせせらぎのような効果音とともにフェードアウトしていくが、これでおわるのだとわかってしまうのが最後としては正直やや残念に思えた。何となく何分くらいのアルバムだったのだろうと考えていた。CDプレーヤーは35分24秒を指しているけれど、もう少し長い気がしたのはなぜだろう。結論から言えばきっとヴォーカル、人間の歌声というより地声の存在感がひと際大きく感じられ、それが聴こえてきた一瞬の時間が僕を音楽の始まりへと常に連れ戻していたからだと思う。

歌をうたおうという意志や、歌の旋律というものが先にあるのではなくて、声を出したその先に音の連なりがあってその塊が次の塊を呼び、またひとつの塊となって響きに厚みを加えていきながら音が弱まって消えゆく過程まで含めて、音の積み重なっていくようなプロセスは、発声がまず何らかの学習された技法ありき、あるいは肉体化した技法に支えられているのでさえなく、声あるいはさらにその内側の肉声から呟くように解き放たれた音が、音楽の基体となって発せられてくる、それが音楽の層となってつかの間あらわれるのだという重みを蘇生させ、新しく意識を覚醒させるかのようだ。このアルバムでは声がちりばめられ採録されながら、ベース音楽にある物語の意味と記憶の厚み、そして旅の始まりと終わりの象徴として効果的に入れられてあるように思われるし、それが聴き手を子供のみているような映像へと巻き込んでいくのだが、数秒から数十秒の肉声の強い存在感は単独でも全く十分なほどで、僕の耳を容赦なくひきつけていく。これは、いつかどこかで不意にエスキモーの声や単律な演奏の録音をきいたときの記憶と非常に良く似ているものだ。

僕は最近また、ほとんど音楽の残響のために音を出しているようなところがでてきていて、でもそれがどうしてかはいまだにはっきりとわからないのだけれど、音が出されている音質を含めた過程によってその残響のあり方がいかに変わるかにふたたび関心をもちつつある。残響のなかにきこえるみえないものがいか様に輝くか、あるいは輝かないかということを想像してみている身体でいることが、ベースを演奏する気にかられる動機となってすらいる。それを求めていると、音楽はやはり一音なり自然で無理のない過程としてあらわれてくるようだ。音質についてもガット弦も生ガットから試しにスチールまきのガットにあえて変えてみたり、弓もドラゴネッティタイプのものにして音の緊張度を高めてみたりして、音の出しやすさや出しにくさや抑制のされかたを変化させて、生み出されてきた音楽の記憶の変化によって残響の輝きがどのように変化するかを味わっている。なぜ残響なのか、それは人間の歴史が終わりかけてきていると、自ら感じていて、時代そのものが残響に聴こえるからだろうか。それだけ歴史的身体や音の出自ということへの関心が強まっているのだろう。

私事が続いてしまったが、残響はだされた音の身体的記憶をひきずっているだけではなく、その場その場にも影響されるけれど、今回これを聴いてみて感じたのは、残響の対にある場所の焦点にあたるのは、むしろ音の始まる前だということになるだろう。このアルバム全体の過程がFeliceさんの物語の創作として、自然であったとすれば、音の鳴っている過程のまえにある、音の出自、音楽とはどうして音楽なのかという発生源こそ、残響のなかに消えゆく輝きをもたらしていると考えた方がよいのかもしれない。音は一つの通過点としての身体の媒介で、その残響と対になるのは、本当は音が発せられてくるその場所かもしれない。それは音楽の始まりということでもあるし、それが音楽となる前までは一つの聞こえることのなかった声ということになる。ひきつけられる肉声が、工夫を凝らしてはいても自己否定や自己肯定、あるいは自己防御や自己解放の投影であるような音楽よりも、そのただの声自体の厚みが、どんなに工夫を凝らした音楽よりもはるかにまさっているという事実には、いつも謙虚にならなければならないようだ。

今回のFeliceさんの音楽について、なかなか僕自身は言葉で直接触れることが正直できないのだが、このジャケットは6歳になるFeliceさんの息子さんが「Il contrabbasso di papa(Daddy's doublebass)」としてデザインしたものだそうだし、タイトルの「LA VIA LATTEA (The milky way)」も子供の目線に立った音楽への憧れを思わせる。Feliceさんも子供との真剣な遊びのなかから音楽を創作しているにちがいない。子供の言うことは時に恐ろしいほど的を得ていることがあるし、その目線を尊敬しながらいたわることは、子供だけではなく大人自身にとっても大事なことであって社会にも大きく求められていることだろうし、コントラバスという楽器のあたたかさはそれを支えるに十分ふさわしいだろう。内ジャケットにあるプロデューサーのGabeiele BruzzoloさんがFeliceさんにあてたメールのなかから一部を抜粋しておきたい。

「子供たちだけがしっかりと地に足をついて、まさにそのとき夢といっしょに青い空に心を旅しています。LA VIA LATTEAとその音楽の旅が喩えるものを私はこう感じているのです。コントラバスの木からうまれるように、地球につながっていて、あなた自身を貫く伝統に満たされ、同時に抽象的なものや夢や純粋な想像へと駆け上がっていくのです。あなたの音楽には地球に責任を負うすべての人の懸命な働きがあります…」(Only children succeed in standing with their feet on the ground and at the very same time,they are able to let their minds -filled with dreams- travel in the blue of the sky. Let me tell you how I feel LA VIA LATTEA and its metaphoric journey from doublebass to the sky. It's a record physically bound to the earth - born of the doublebass' wood, filled with your own tradition- and at the same time cast towards the abstract, the dream, the pure image. Your music has all the hard work of the man bound to the earth...)

今日は強力な台風がおとずれて淀んだ空気を一気に運んでいった。空気は台風の猛烈な暴風の残響のなか気持ちよく澄みわたっている。台風の去っていったあと、風はまだ強く空は清々しく青かった。その地球の空のなかで、今年は中秋の名月を拝むことができるだろうか。人間にとっての現代は、大人にとっても子供にとっても確かに複雑にすぎる時代だけれど、ひと月ひと月の月の満ち欠けは昔も今も人間にとって変わらないだろう。ひと月とは、月が消えてなくなる新月から次の新月まで、そのことを思い起こす。それを発見し、それをひと月と数えようとしたむかしの人間の声の音楽は、伝統や心ということすらよりも前にあるような、人間を支える根本的な回帰循環の発見の感動とともにあって、自然な厚みある響きに満ちていたにちがいない。人間の時代の残響をいま生きなくてはならないのであれば、月の満ち欠けのような、みかけは素朴でありながらも恒久的な運動であるような声とともに、複雑な現実からこぼれでるように導かれた音楽があるにちがいない。