夢枯記019 Wojtek Traczyk | Free Solo
contrabass solo/cd/multikulti/2012
【Yumegareki 019】
One of the key elements that the bassists expect from contrabass is a low tone and noise created by its resonant overtone. In our daily lives, it is quite difficult to perceive physical noise. However, contrabass brings about big fluctuation through the complex vibration of a string, which detaches us from the conventional ways of listening to the music: that is to distinguish the complex variation of the sound with our ears. Then, something extraordinary emerges within the sound fluctuation, unfolding the music as noise itself in our body. At that moment, noise becomes the body itself. We also realize that all the living things are supported by the fluctuation and noise of the nature. The abrupt ending of the music sounded like the embodiment of a sudden transition from noise to soundless chaos.
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安定したフォームもなければ、きれいな音でもないフリーベースインプロヴィゼーションソロをいくつも聴いていると、ベーシストたちはいったい何を音楽に求めているのだろうということがいつも気にかかる。ベーシストとはいったい何者か。はたしてそれは突きつめることが難しい謎かもしれないが、「ベーシスト」とひとくくりにはできないのは当然にしても、世界の中でのなにかの領域をなしている、そういう感触だけはなぜか逃げない。その領域の一つは低音のもたらすノイズにあるように感じる。このアルバムも、のっけから音域の非常に広いコントラバスのなかの低音にしぼってソロが展開されていく。ノイズを象徴するように弦がはじかれる度に、弦とフレットに挟まれているような金属片のようなものがふるえた音を出す。
あるものとあるものが光に照らされてあたかもそれだけが存在しているように第三者からみえていて、そのあいだにあるみえない空気が揺れているとして、その揺れかたは、物理的にも感覚的にも、またイメージとしても、たとえばヴァイオリンとコントラバスでは雲泥の差があるにちがいない。違うから両者とも必要なわけであるだろうが、コントラバスで大きく強調されるものは、やはりノイズなのではないだろうか。ノイズは肉体であり、第三者の観測者は場に存在しない。ノイズが強調されればされるほど、第三者的な音の聴き方は無効になる。つまりは客体と主体しかいなくなる。さらにそれらがノイズという体験において入り交じり、その基体のようなものがむき出しの生となって響く。コンピュータのような外側から作られた均質なノイズではなく、まったく均質とはいえない自然の未知なるゆらぎ、倍音の豊かさに依る空気の振動幅の複雑さは、他の楽器にはかえがたいものがあるだろう。僕のいま所有するコントラバスはたぶん19世紀のものだが、なぜか微妙に左右非対称につくられてあって不思議と魅力的にみえる。
見えるものと見えるもののあいだの見えないものがノイズの複雑な混成系からなっていて、ノイズがみえるものの輪郭を浮き立たせ、さらにそれらを秘かに関係づけているような揺らぎの領域。それは音が発せられてくる根源的な「闇」のようなイメージでもないのだが、そのモノとモノの間にある隠された領域はたぶんいまだに、未知に満ちていて、芸術という行為の役割の一つは、そのモノとモノのあいだを行き来して丁寧に、あるいは不意に非日常を救い上げながら、日常にあらゆる問題提起をすることかもしれない。この未知の領域を泳いでいく過程を音に託す胴体として、ゆらぎの大きく対称性のずれたコントラバスは、現代において適しているように思われる。そのあいだの光のあたらない、あるいは煙や霧のように空気を照らすものを反射させないとみることのできない、世界から少しだけ隠された尊い領域にこそコントラバスは鳴っているように思える。あるいは、コントラバスの音楽は日常を積極的に疑ってあばくための使命があるというよりも、覆われている日常の虚妄から侵入されにくい、だから音を出すということ自体が、音に反射された非日常を意図せずに提起している、そのようにいったほうがいまの僕にはしっくりくる。
そんなことで、身体的な個々の表現が楽器に乗り移ってきこえてくる身体の激しさも当然あるけれど、そのコントラバスへのこだわりと表現とはある意味無関係に、その表現の振幅よりもおそらくコントラバスという楽器の鳴り響く空気の揺れ幅のあらわれている場のほうが大きく影響してきこえてくることがある。この場合、楽器そのものに身体を託した方が演奏もよくなるだろう。そして旋律の豊穣さや音の現在進行していく推移よりも、場の空気の振動感のほうが重大な要素に聴こえてくると、その揺らぎの複雑さを聴いている耳が音の差異を複雑に聴き分けることをむしろ拒否し始めて、その揺らぎそのもののなかに浸るようになる。そのとき、揺らぎというおそらく物理的にはかなり複雑怪奇な現象自体が音楽そのものとして身体には聴こえて、世界の音の根っこにあるものと聴く身体が同化していく。複雑性と単純性が対になり、また同一化する地平において、音楽がまさにノイズというレベルのなかに存在しだす。弾いているときもその身体がそのレベルに同化したとき、身体は意識を越えて動き出す。
このアルバムにおいてWojtek Traczykさんの音楽の目指しているものは、基本的にはそのようなノイズ性であるように僕には聴こえた。単音の羅列すらもそのノイズとして聴こえてくる。唐突な幕切れもノイズから無音のカオスへの突如とした移行をものがたっているように聴こえた。こういう音楽は日常に完全に毒された耳と身体で聴くとかなり疲れてしまうし、一度聞いたときはそうだった。けれども聴き方のレベルを変えてそもそもノイズの身体でもう一度聴くと、不思議と疲れない。
コントラバス音楽はときに、耳で聞いてはいるようなのに人間、あるいは私は耳だけでは聴いていないこと、考えているようでいて本当にはなにも考えていないということ、私というものが何もわかっていないということをわかっていく、そういう認識と身体に僕をみちびいてくれる。そういうとき、たとえあまりにも圧倒的で過剰な日常性によって落ち込まされた気分も、実に相対的なものに過ぎないことがわかって気も楽になってくる。生のすべてが自然のゆらぎに支えられていると気づくのだ。
以上は僕の素直な感想だが、ライナーノーツのWojtek Traczykさんの言葉から一部を引用しておこう。
“Performing solo pulls me out of everyday life and puts me out there in that high place of danger and awareness that I long for risking everything giving everything not knowing yet believing and brings purification and freedom that is so hard to find.”