夢枯記034 Domenico Sciajno | Broken Bridge

contrabass solocdfringes1999
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034domenicosciajno

Yumegareki 034
This bass performance seems to inspire listeners to experience a visual event through listening. I wonder whether it is really possible to encounter an “image” that is created in a course of dialogue with music played by a bass. I thought it would be better to raise this question in appreciating this piece of music, because, while visual image can easily be associated with “wisdom” allowing the wisdom to analyze it, the image can pull wisdom down if we stand squarely in front of them. In this music, wisdom and image seem to move back and forth through the medium of a physique of the performer.
When I put myself in a space of music, I feel an event surrounding the music, which is uncertain and asymmetrical, but still somewhat balanced as a whole.
A place called “image” is consisted of nodes of diverse events. Although music remains simple, it may contain the wisdom of music as a node in an intricate mesh of the world. Wisdom can be regarded not only as analytical language but also as an open and organic image node, encounter, or event. I began to realize that music is a medium and a node of wisdom in this complicated mesh of the world, moving through the mesh like water and moving the mesh as it passes by. There, we spot synchronic images here and there, quite different from the images of community or family. They show certain implications of the unconceivable future.
The album ends with the title song, “broken bridge.” It defies my image of music integrated within me by putting a sudden halt of sound and finishing the music without sound. In this unexpected aftermath, I felt an inorganic physical violence of the soundless world. I remained standing in this soundless world until I began to realize the rebirth of the image, bringing visual image back to auditory one, and gradually transforming “soundlessness” into “silence.”
It made me ponder on the true sense of silence. If I am not carried away by the image that develop in my mind screen, and if I stand in front of the latent violence of my internal image while exposing myself to “soundlessness,” then I may be able to perceive an event of the genuine silence.


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裏ジャケットには364/400と刻印があり、枚数は限定的なのだろう。あえて目の前に本物のベースがなっているくらいの十分な音量できいた。はじめのうちは実験的なフリーベースソロに聴こえた。実験的といっても、やっている内容を演奏する側にたってその手法を想像しながら聴くのでは、やはりつまらないようだ。ついついあそこをこうやって擦るとこういう音がなるとか、ここは完全な偶然で不確定な音を受け入れているのだろう等、音の推移の技術過程を見がちになる。自分が弾くように聴くこともできるが、それでは音楽を聴くという出来事からはほど遠い気がした。

聴き手としても一人の弾き手としても、一つ一つの音に技術的な想像をするのではなくて、出された音、そして録音された音楽との対話のなかから生まれる<イメージ>の前に本当に立つことがベース音楽を通じて本当にできるか、そしてそのことがベースを弾くという自らの行為とどうかかわるのか。僕にとっては、そういう問いとしてこの音楽を受けとめた方がよいように思われた。Domenicoさんのサイトをみてみるとそういう雰囲気があってこの音楽は納得される。思想家のディディ=ユベルマンの初期の代表作『イメージの前で』という大著を思い出す。

表ジャケットを見ても淡色のスケッチのみで名前やタイトルはない。これに見合う視覚的な手段をDomenicoさんはもっているに違いないと直感したし、実際そうであるようだ。音楽というよりも音の断片による映像イメージが目の前にどう立ちあらわれてくるか、あるいはアコースティックな響きの艶をあえて物質的な入り口として据えて、そこに非物質的感覚が到来してくるかどうか、そういう問いかけだろうか。無機的でもあるし有機的でもあるどっちつかずの半端な音楽に聴こえもしたが、その半端さがかえって僕の興味をひきつけて離さないようだ。

一瞬、正月に訪れたロンドンのテートモダンでのパウル・クレー展を思い起こした。クレーの描くすぐれた抽象絵画イメージは、解読すること、さらには絵画を見ることすらをもが、その場からあらかじめ遮断されているように感じられる。考えなくてよいと絵の方から諭されるのだが、音楽と関わりが深かったこと、僕自身が皮膚科医であることもあってクレーの病だったとされる強皮症のこと、どのようにあの硬化する皮膚の手指でこの細かい絵を仕上げるのか、クレー自身の人生のことまでやはり想像する。思考するということはどういうことかをも考えさせられるのだが、やがて行き場を失った思考がゆっくりと感覚の内部に降りて、より深いイメージがよびだされてくる。イメージは目の前の絵の物質性と呼応し有機的に増幅しながら、見る者に非物質的な出来事を経験させ、あのクレーの「天使」が舞い降りてくる。視覚的とも言えない、物質的であるともないとも言えないような聴覚的イメージをもたらす不思議な事態だ。

こうした尊い瞬間をもたらすクレーの絵は音楽的で、作者と見る側の絵画を通じたイメージの相互捻出というよりも、誰のものとも言えない場所にあるイメージの潜在性そのもの、イメージの潜在プロセス自体を抽象的な絵において具現化しているかのようだ。その絵画の音楽的身体には深い「知」が宿されてあるだろうし、この知は智慧ということや、意識では予期できない身体的な予感や予兆とも無縁ではないだろう。

このベース音楽は、「夢枯記024」でも触れたクセナキスの凶暴にも映るコントラバスソロ作品『Theraps』の白色に濯われてくるような強いイメージからは遠いが、聴くことを通じた「視覚的な出来事」を一定度、聴き手にまずは迫るものだろう。よく言われるように視覚は知と容易に結びつくが、ユベルマンが言っていたようにイメージという場所は多種多様な出来事の結び目でもある。知というと「非ー知」がこれに対峙され、今後も「非ー知」の領域や脳や身体、心をも知の対象としながら、思想は次々に概念を紡ぎだし自らを脱皮していくのだろうが、知とは分析的言語のみならず、クレーの絵画における「ものごと」の到来のように、ずっとおおらかで有機的なイメージの結び目、出会いや出来事としてあってもよいだろう。このとき、音楽とは聴くことによって世界を深く観て知ることができるすぐれた方法であるとあらためて気づく。知がイメージを分析するのとは逆に、イメージの前に立つとき、イメージは知を引きずりおろす。その隙間をただようような知とイメージの往復運動を楽器を弾く身体が担う。そういう音楽のあり方が聴こえてくるようだ。

聴いていると、そこに音として聴こえてくる当のものがその場に含んでいるような、素朴でありながらも世界の複雑な網目の結び目としての「音楽の知」とでもいうような、不確かで非対称ではあるが総じればどこか均衡の取れた出来事が、音楽を取り巻く気配としてあるような気がしてくるのも確かだ。それはDomenicoさんの音楽的キャリアや音楽哲学によるものかもしれないし、アカデミックな音楽の脱構築の可能性の場として存在するものでもあるのかもしれない。しかし大きく捉えれば、その気配を感じること自体が身体知によって招かれる音楽の教えでもあって、その教えを感じとれるほどに弾き手と聴き手が音楽に対する純度をそれぞれの身体を通じて保っていられること、音楽のなかで、あるいは音楽に対してそういう身体でいることは、音が音楽という場を形成しうるための、音楽の知を感じ取り音楽の教えが人々に享受されうるための重要な条件であるかもしれない。クレーの「天使」は、音楽の教えでもあるのではないだろうか。

こう書いていても、春を前にして寒がもどり、時折の地面へたたきつけられる雨音や不穏な強風の揺らしている木々の葉の擦れる音の語る、日々変化しては消えてゆく自然の教えについて思い起こす。そして自ら楽器で本当に音を出したくなるのも、こういう教えを感じる身の回りの音のきっかけがあってこそだと感じられる。音楽は身近な音を聴いて何かを受け取りながら自らの身体を通じて弾くことで、過去を照らし出し、今を映し、未来を予感しながら、その場を一回ごと巡回してゆく。

それぞれの人生の合間に去来しては過ぎさってゆく音のきこえや音のイメージは、人間の数よりも無限にあるはずだが、音楽は仏教的にいえば「縁起」ということでもあり、世界の複雑な関係の網を水のように通う媒体、網を動かす触媒でもあり、結び目としての智慧なのかと今日も思いかけていた。そこには共同体や家族というものとも異なる共時的なイメージが、場に場に点滅してあらわれる。音楽はイメージを記憶に落としながら場を去っていく。音楽がこの世界でそうした場を生みながら、人々の網目を縫って自由に旅するために、音楽を愛する人々が音楽から教えを享受するだけではなく、いやむしろそのために音楽へと向かって、虚飾なく謙虚に努力しながら働きかけることが必要だ。

が、こうして僕の内部に統合されていく音楽へのイメージをまるで裏切るかのように、それまで続いていた音楽が突如として途切れる。その曲は何を隠そうアルバムのタイトル曲「broken bridge」であった。音楽を通じて架けられようとしていたイメージの橋を待ち受けていたのは、イメージの中断だった。そしてしばらく沈黙の中に宙づりになる。それは中断ではなく音楽の終止符でもあった。アルバムは突如として終わりを告げ、しばし待ってももとにもどらない。この切断による音楽の終末は、世界の全き破壊的消滅とも受け取ることはできない。この音楽の終わりの沈黙には、僕がさらに学ぶべき点があるようだ。

切断のもたらす余韻、そこに広がる沈黙はあらかじめ意図されてあるようではあるが、不意に、予期しないこの切断に遭遇すると新鮮な驚きがもたらされる。音楽を聴きながら次第に暗に生じていた自己内部の意識の統合が、突如として否認されるかのようだ。それまでの音楽の柔和で自家中毒的にもなりかけたイデア、視覚的で言語的なイメージを破るための意図的な方法としてあったのだろうか。強固に形成された視覚的イメージは、一方では内部の暴力性に自制的に対抗しうる柱ともなりうるが、イメージそのものに内包されている暴力性はしばしば、意識の外に知らず知らず排除されながら隠蔽されていく。音楽の意図的切断、瞬間的切断の形がとられることによって、イメージに本来的に内在する暴力性を音の余白の沈黙の中に蘇生させ、この意識に浮上させることによって、自らの内部にこそ潜んでいる暴力性への自覚が促されてくる。

何気なくその音楽の突如とした余韻を「沈黙」とよび記してしまったが、それは深い感情の器としての沈黙でもないようだ。音楽の切断によって、アルバムは沈黙ではなく修飾のない「無音」のうちに音楽は終わったようだった。余韻の中にただよっていると、音のない世界の無機質な物質的暴力性を感じた。まるで時々押し寄せてくる機械としてのカメラが捉えたあの写真の粒子の世界の感覚のようだ。それまでの実験的であるような有機的とも物質的ともつかない演奏のプロセスが、この突如の無音、言い換えれば生き始めた「イメージの死」を経て、異なる意味を帯びて生きかえってくる。

音の切断によってもたらされた無音、そこにイメージの新たな自己蘇生が生じ、それまでの音の視覚的イメージが聴覚的イメージへとすすむ、あるいは立ち戻っていくような身体感覚のプロセスを経て、「無音」がようやく「沈黙」へと向かってゆっくりと変化してゆく。その沈黙の裏側に闇のイメージ、残響としての耳を通じた聴覚的イメージのようなものがようやく立ち現われてくる。闇のなかにようやく差し込んでくる一筋の光ではなく、光から無音の闇への突如の転換によって生じるイメージは全く視覚的にはみることができない、不気味な鵺の声のようだ。

世界にまるで燃やしきれないゴミのように氾濫するようになった写真がその役割を取り戻すとすれば、その使命は、こうした突如とした無機的で不気味なイメージの前に否応なく立たされる無音の経験を通じた、人間の感覚の内側に生じてくる沈黙を聴く契機としてあるのではないか。音のない写真に沈黙を聴く経験と、この音楽の切断は深いところで関わっているようだ。このアルバムにおいて僕にとって大事な音は、この最後の余白に生じた無音であった。これは音楽の教えでもあって、僕自身への戒めでもあったと思う。教えというものはいつも意外で思いもよらない場所からやってくる。それは、弾き手も聴き手も意識はしていない未来への身体的予兆とどう関わるのだろうか。音が未来を招く感覚、音が未来を溶解していく感覚をいだくとき、いつも予兆ということのプロセスの不可思議について思う。

古代の山伏たちは修行者であると同時に多くの技術や多岐にわたる情報の優れた担い手でもあったという。彼らはその担い手たることを失わないために、山に何を聴いていたのだろうか。あの不気味な鵺の声や驚異の気配であり、ものごとの不吉な予兆だったのではないだろうか。花見や紅葉に眼を潤すのみならず、森林のなかにたって耳を澄まし自然の厳しい声を聴くようにして、そのとき地下から噴出するように突如として生じてくる自他の暴力への想像力や自然の脅威への想像力を手放してはならないように思う。記憶の風化に抗し、喪失され消失したものの残響を聴くためにもそのことは必要であるだろう。眼前に展開する夢のスクリーン映像のまえで躍らされずに、全き無音にさらされながら自己内部のイメージの潜在的な暴力性の前に自らが立つことが今できなければ、沈黙を感じたり
「音楽の知」に触れながら未来を聴くという出来事は、真にもたらされないのだろうか。