夢枯記004 Mike Bullock | Initial
contrabass solo/cd/chloë/2002
http://mikebullock.com/
観客かだれかわからないが、人々の日常的な会話のような音で始まる。ライブか?。いつになったらベースの音がはじまるのだろうか?。どこかでうなっているようなアレは、なにか機械の音なんだろうか。。。。。
その機械的なうなりの音こそが、ベースの解放弦のDの音程、その電気的な線だと次第にわかってくるのだった。電気的に増幅させた弱音が電波の波長音をだしながら、次第にボリュームが大きくなっていく。僕はエレクトリックはほとんど無知だけれど、おそらく弓も少し擦ればアンプからの音として巨大な音になってでてくるのだろう。コントロールがその分むつかしいのか、やさしいのか。これは実験か、革新か、創造か。けれど、そんな問いは僕とこの音楽の初対面にふさわしくはないように感じて、すぐに思考をかえた。
1990年代はじめ、二十歳前半のころ、ある友人の影響もあって、僕もエレキとかイフェクターを使ってフリーインプロのようなバンドを少しやっていたことがある。エレキベースはそこそこは弾けたつもりでいたから手癖が出てしまうということで、エレクトリックギターでカギなどをこすりあてて金属的な音を出した。このバンドも耳が麻痺するような大きい音量だった。耳は受動的だし故意に音を選んでいるのだから何かを選択的に聴いてしまう、だから音量を大きくしていわば耳が聴こえないような状態にして身体が反応し合う音をぶつけあって、何かがでてこないかという発想があった。今では考えられないけれど、当時、こんなふうにわざと耳を麻痺させるようなことを実験的にやってみたいとおもった時期があった。
聴いていると、そのときの記憶が人工的な汚染物によって腐食された草のような生命をもって蘇ってきた。さらにはこちら側の問題があぶりだされるように、原発のなかに閉じ込められている感じもしてきてしまった。メルトダウンした原発内にいま草は生えているだろうか。そんなことを考えてしまって、この単一な変化のない音の連続のなか、思わずスピーカーと対面してコントラバスのD線の解放弦を対峙させるようにならしてみて共演しだす始末。当然のごとくこちらの音はほとんど聴こえない。
この音はいま機械できいているにすぎず、音量もいくらでもかえられるということを冷ややかに前提にしなければいけないと思うようになった。ふだんオーディオでかけている音楽とはこういう電気信号であるのだ。エレクトリックであることそのものによって、日常かけている音楽の確からしさをかえって疑って省みるという状態が続く。機械の限界性を自覚させられもしたし、いかに日常を機械に頼ってきたか思い知らされもする。それは写真やインターネットの発明のように新しい文化でもあって、一方で吸収もしなければならないけれど、ある意味において思考を非常に画一化しもするし、脳を含めた身体の退行を強力にうながす側面もあるだろう。
それ以前に音というもの自体も恐ろしいもので、あらゆる思考の力を遮断してしまうことがある。音楽家の意図がいかにあろうと、そのときの聴き手の状態や環境や耳のありかた、音への嗜好性やモチベーションのあり方で、どんなふうにも聴こえてしまう。非常に楽観的に言えばどんな音の夢の中にも発見的で驚きのある思想は芽生えうるだろうに、その思想の芽が聴き方によっては摘まれてしまう。それをわかって音を身体に刷り込むこともたぶんなされるのだろうし、音の影響力はやはりどこまでも強い。
そして作者の意図がいかに違うところに深くあっても、僕にとってはエレクトリックによる表情のない低音の線は、音の自発的運動を阻害しながらすすむ自己表現の傾向をその影に暗黙のうちに映しだしている気がしてしまって、そのあらわれとしての時間が先行してくる。エレクトリックはコントロールから本当にはずれる音、自発的な音の連なりが欠如する傾向が強いからなのだろうか。どうしても音から何かを自発的に発見するというチャンスが減少する。音のイメージだけが強力にこの視野にへばりつく。いったんそう聴こえてしまえば、それが思想的、音楽の文脈として革新的であろうと、ともすれば排他的に、あるいは逆に熱狂的な信奉としてしか聴こえなくなる。
けれど、聴く側にそれを聴くための言語と身体が、幸か不幸か培われていなかったということだけでもすまされない時代に生きている気もしてくるのだった。
鑑賞したあとでMikeさんのホームページをみつけてみていると、Mikeさんはインターメディアや音響学もやっておられるようなので、もちろんちがった現代的な意図や発想があるにちがいない。音楽の世界は広いというところからこれを相対化して捉えることはむつかしくとも、振り返ればコントラバスの音を素材としたアプローチによって、ある抽象的な映像の影のなかにこの身体が通過しているという感じはずっとしていた。心地よくはないが、心地いいとか悪いというところにこの音楽は絶対的にないという点で一定の質感と緊張感があり、そのことによってこそ最後まで聴き通すことが可能であった。そこに行為としての伝達性が確固としてあったように思う。
コントラバスやコントラバス奏者にどこか通低しているような真面目で不真面目でもあるユーモアが何かを「伝える」ということを「楽」にしていたのだ、そのようにも感じられた。何かが何かから伝わるというところから、お互いがどのような状況下にあっても、その方法がどんなものであっても、言葉が立ち上がることがあるのだ、そんなことを教えてくれる時間だった。僕にとってはながいながい時間の流れたアルバムとなった。それだけに書くことも増えてしまったが、正直に聴くこと、ひいては正直に弾くこと、そして正直に書くことの大切さを思い起こさせてくれたアルバムと言える。