夢枯記017 Peter Kowald | Silence and Flies

contrabass solocdfree elephant2001
http://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Kowald(wikipedia)



017peterkowald

Yumegareki 017
Peter Kowald is sincere about being a human himself.  His music seems to be an expression of solitude as human being.  But deep down, I feel awesome flexibility of his body, adapting to his surroundings by perceiving the future.  His body is just like a sublime and luminous earthworm, which cultivates the land without being witnessed by people.  Through his own internal performance, he materializes the saturated silence and the flight from time in the margin of music.  His music is a desperate act to live a new future, concurrently expressing the movement of his mind and presenting the disappeared lives with his body.  The music resonates vividly in my mind.

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Peter Kowaldさんのソロベースを聴くのは初めてだ。妙な印象から入るが、いま僕のなかにいるのは一匹の崇高なるミミズ、Kowaldさんはミミズのなかでも発光するホタルミミズ Microscolex phosphoreus かもしれない。ミミズが地底のその孤独から立ち上がり、地上すれすれに輝いて一瞬姿をあらわした。こうした演奏家の一瞬の輝きこそがまさにライブという活動形式であるのではないか、ということをはじめは思っていた。音の高低と強弱は土なかの深度と発光体の強弱をあらわしていて、内的に発光した光の痕跡としての純度の高い音を、人間の現実という土壌のなかで追いかけてきた時間の運動がこのライブなのではないか。

昨晩、こうして聴き終わってから、ダーウィンの驚異的に柔軟な、といってもくねくね体が柔らかくうごくという意味ではなくて、ミミズのあまりにもすばやくて的確な状況把握と対応力を備えた運動の話や、石田秀美氏の「気のコスモロジー」という本のなかにでてくる、ミミズはコンピュータをこえるという話を思い出していた。ミミズは眼が見えないというところからその名がついたという説もあるそうだが、その生体は環境に対して極めて順応力が高く創造的な働きをなしているという。かなり疲れていたので寝てしまったが、この音楽の記憶に心を動かされるように早朝に起きて、この本を少し読み直していた。ここに出てくる、受容しわかることと行為することが分裂していない「こころ=行為」という石田さんの話は、僕の身体をいつもくすぐっているのだとわかる。もう一回このCDを聴いた。

因果のなかにある運動が根本的なのではなく、演奏の流れの中で身体をついて出てくる音の思いがけない美しさに富んでいて、過去から未来という流れよりもつねに未知なる未来が現在に流れ込んできているように聴こえる。音の定着のやり方やこそ異なれ、この感覚は作曲家の八村義夫さんの音楽に抱く感覚とどこか似ているようにもいま思う。そんな時間の幅のある領域のなかに身体を一度浸すことができれば、大抵はしてしまっているしそれがよく聴いている聴き方だと思いこんでしまうけれど、本当には音の変化についていっていないのに一つ一つの音の過程をうんうん唸って意識的に追いかけるような聴き方だけでは、この音楽は聴けないように思えてきた。

心や音はつかんだと思ったらすでに意識に汚されている。逆につかもうとすると逃げていく。そういう聴き方では本当には何も言葉が出てこないもののようだが、そうなってしまっていることも多い。そういうふうに心や音はとらえどころがないけれど、とりとめがないそのこと自体にこそ宇宙があらわれていると心がそのときわかっていることが、同時に身体が行為している、聴いたり書いたりしていることでもあるのだ。こんなふうに思いながらもう一度聴くと、未来ー現在の時間の流れ込みはたしかにあるはずなのに、終わった後にむしろ時間などなかったかのように思える不思議な感じがのこっている。

音の刹那や実存、音の存在と時間ではなくて、存在していたものがこれまでの長い過程においてだんだんに消滅してきた非存在の領域を、コントラバスの音が広く音空間に存在せしめて音楽の余白に残している。その広がる空間自体がはっきりとみえて、聞こえない空間の音が聴こえだしてくると、音楽という時間はゼロに回帰して、むしろそこからの広い視点が生まれる。だがそれには、生存をかけた音楽が必要なのだ。

感情的にはいま人間が捨て去ってきたものの大きさが身にしみだして泣けてきさえもするけれど、いや思い直して、あのミミズを借りてこの状況を肯定的に言えば、身体がその身体となった、まさにそう言うしかないことによってミミズがミミズという存在たりえてきたのだ。ミミズに複雑な外面の器官がないのは多毛類のような複雑な形態をした遠い祖先から、地中での生活環境に適応するために進化してきたという話があるが、そのミミズが長い年月をかけてそぎ落としてきた器官たちが音楽の余白に彷彿としてくる。だが、それは他者をひどく巻き込みながら自滅に拍車をかけるような周囲環境との相克から生まれるものではなく、自然との異化同化と自らの謙虚で無垢な生存をかけた結果、自然にそぎ落とされてきた何かなのだ。そういうものは、殺されたり死んでからも生への敬意を失わずにいられて、無のなかにひっそりとたたずんでいることができるだろう。

Peter Kowaldさんは自らに課すような、人間であるということにあくまで忠実であるような激しい内面的なその演奏行為を通じてこそ、無の充満と、時間からの飛翔を音の背後に現出させているのではないか。これは、生存のために消去されみえなくなったものへの音楽、あるいはそういうことまで含めた未来への生存のための音楽といえないだろうか。その音楽は人間の孤独な生存への表現であるだろうが、その裏側には、自然の一見みえにくい浄化作用と未来を察知しながら自然へ適応する生体のしなやかさが同時に響いている。

発光するこの実直であり崇高であって自然理性的なるKowaldさんのホタルミミズ的動きは、現存している生態系で最も愚かな知を所有しているであろう人間に生まれた僕の内部に強い自覚をうながし、音楽はいたく心にひびきわたる。