夢枯記032 Henry Grimes | Solo (Bass and Violin)

contrabass & violin solo /2 cdsilkmusic2008
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032henrygrimes

Yumegareki 032
This music goes beyond the role of a mirror to reflect the words of ourselves and others. It flows and resonates as deep blue sky and sea that reflect nothing. After listening to this music, I felt nothing but a sense of wonder.
There is a place that can keep itself only by the changes while our bodies are constrained by historical and geographical restrictions. That is the place located just before the so-called “tradition”. This hard-to-identify “something” doesn’t exist nor nonexistent.
Nāgārjuna, an Indian monk in the second century A.D., came up with the radical theory of “Ku.” “Ku” is something like “emptiness.” It is a difficult concept to understand because it means more than what words would convey. In this theory he negated all the things including all sorts of materials, even words and their meanings.  Nothing exists. The world in front of us only appears in relationship to others. However, it doesn’t necessarily deny the wholeness of the world. Instead, it connotes the positive affirmation within the movements.
Henry’s performance of a bass and a violin lasted two and a half hours, taking turns between the two instruments. He recorded this piece after suspending his activities for about three decades. It conjures up a thin but pure sound in a deep radical breath through Henry’s “forsaken body.” The texture of this sound is similar to the experience of “emptiness.” It is as if the letters of the sound looming up from the unseen horizon between the sky and the sea.
I remember Ku-Kai, a founder of esoteric Japanese Buddhism, lived in the 8th century. His name, Ku-Kai, consists of two Chinese characters, “Sky” and “Sea,” of which the character “Sky” also means “emptiness.” In his major works, he talked about “the letters of inner voice.” They are the rhythm of breathing that has the largest impact on the world. According to Mr. Seigo Matsuoka, the inner voice is the vocal energy of lives, while the letters are the characteristics of breathing not for writing. His performance is like photosynthesis of a plant full of quiet internal energy. It is a rhythm of a deep breath in a form of biorhythm of bioenergy.
This music seems to expand a constant deep breathing in a place different from the conscious one that seeks for poems dedicated for the deceased and the living. This music may have illuminated our consciousness of the memory of the sound movements hidden deep inside our bodies. The memory that the words were created by the vocal dynamics. 



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夢枯記は音楽の夢の枯れかけた言葉にすぎないのだろうか。音楽は正に目覚めている時間なのに、音楽は、書けば目覚めてしまう夢、でしかなくなる。ただのこされるものは、問いの生まれそうな感触、それだけかもしれない。それをさがしながら記すしかない。音楽は鏡のようにすべてを映す。なのに映された鏡はもうここにない。だから古鏡のように、音楽それ自身は鏡ではない。なにも映さないなにもない空と、なにも映さないなにもない海が、そこにある。その境界の見えない水平線から音楽が聴こえてくるまで、声なる空と母なる海がよみがえるまで、ことばはたぶん、生まれることはない。そしてことばは生まれてもすぐに消えていく。ことばを、問いを、書きとめる言葉だけがのこる。

年末年始に一週間だけなのだがイギリスをおとずれ、ロンドンで新年を迎えた。遠くから見たテムズ川付近のニューイヤーの花火は華やかで、バックミュージックはロックやプログレ、ピンク・フロイドなども当然のようにかかっていて、なかなか面白かった。大晦日というと日本では除夜の鐘、そして静かに新年を迎える毎年の風景とは大きく趣が違った。ライブハウスには行かなかったが、ロンドンではおそらく音楽に対して各々が個人個人のシビアな感覚をもっているのではないか、そういう気配を人びとのしぐさや顔つきに時々感じた。

時間を作ってコッツウォルズ地方の北にある、ベーシストで楽器製作家でもあるThomas Martinさんのご自宅を訪ねた。家族でお邪魔してしまったのだが、レッスンやワークショップで忙しいなか、ご自宅で数時間ほどたぶんベーシストで耳の肥えた奥さま(試奏の際に弓をお借りした)に付き合っていただき、おいしい紅茶を入れてもらって、フランスの名器Gand & Bernardelのライオンヘッドベースの試奏もさせていただいた。とても貴重でいい時間だった。レッスンが終わり時間をみつけて会いに来てくださったThomasさんが、演奏されているNaxos盤のボッテシーニの録音のCDをプレゼントしてくださった。Thomasさんの人柄とユーモア、そして事前に連絡を取った息子さんのGeorgeさんは稀にみるようないい感じの人だったのも非常に印象的だった。

いただいたCDを聴きながらイギリスのコッツウォルズの限りなく良き風景のあいだを続く道路を車で走った。Thomasさんの非常にうつくしい音に導かれてイギリスの田舎をドライブした時間は、まるで夢のようだったので夢枯記に書きとめておきたかった気もしているが、もうはるか遠い昔のような気がしていて残念に思う。その余韻をかろうじてここに書きとめるとすれば、あのときどこまでもなだらかに続く羊や馬のいる平野をみながら思っていたのは、風土と音楽、そして伝統とはなにかということだった。あの風景に照らされた音楽はボッテシーニを借りたThomasさんそのものだった。

音楽の現在を歴史的な場においてとらえること、生き方や信仰、深くは宗教ということを歴史的で地理的な現在においてみていくことの重要性を、一瞬でも肌に深く感じた。ほんのつかの間の休養のための旅でもあったけれど、外国での短い経験は、それを鏡とするように日本に生まれた僕自身を否応なく見つめさせる。旅はやはり音楽と似ていた。僕はこの数年ふりかえれば、良寛や道元、上田秋成にも少し近づいた。帰りの飛行機のなかでは立川武蔵さんの「空の思想史」という文庫本を読み返していた。

日本に戻ってしばらくして、何かきこうかなと思えたので棚を見ると、このCDがこの目に飛び込んできた。Henry Grimes氏といえば記憶に残るのはアルバート・アイラーや、たしかセシル・テイラーなどの多くのアルバムで、僕もそのベースを耳にしてきた。学生のころ、特にミンガスのようには特別に意識はしていなかったけれど、少なくとも確実にこの人の名前を意識しながらレコードやCDをひそかにチョイスしてジャズ喫茶でリクエストしたり買って聴いていたと思う。しかし20-30年間の演奏休止の沈黙を破り、こうしたソロレコードが近年でているとは知らなかった。これまでどうしてかコレクションのなかにあるのを全く気づかなかったのだが、イギリスでのThomasさん訪問の経験のあとに聴くのは、直観的にも今ここの身体にあう気がしたので、やや疲れていたが、意を決して再生スイッチを押した。

二枚組で、約2時間半のベースとヴァイオリンのソロ演奏が交互に延々と続く。楽器をかえる際の途切れはなく、ベースを床におく音まで聴こえるから連続した演奏なのかもしれない。音の内部に身体が入り込むように聴き入った。途中で飽きることはなかった。どういうわけか、演奏のなかから言葉というものが、不思議と僕にはきこえてはこなかった。気に入らないから書けないのではなく、良すぎて書けなかったのだ。これを書いているのは数時間経ってから、やっと通常の言葉を通じたイメージのようなものが、あるもどかしさとともに湧き始める。なんだかわからないまま、じわっと書いてみたのがはじめの段落で、それから書きあぐねてイギリスのことをぼんやり思い出していたのだ。

道元のいったような、わからないとしかわかることのできないような仕方で、やっぱりいまこの過程で一つ喩えるならば、「空」の呼び声がこの音楽からは聴こえてきていたのだろうか。意味では置換不可能な言葉。無というより言葉をこえた空、その擬似的な教えとしての言葉の発信でもないような、空の音楽であったように僕は感じていたらしい。聴いていたときを思い出すと、ほとんど言葉がでてこないほどに空なる経験だった。空は無という何かですらないという。それでもしばらくたつとそういう音の匂いがしてくるのはなぜか。それが空というものの肯定力だからだ。しかしこれは神秘体験ともはっきりと違うものだ。イエスは「悔いあらためよ」と言った。仏陀もしかり、自己否定を求めた。目覚めよと。はじめにあったのは言葉ではない、むしろ言葉以前の「声」だったのではないか。空海の密教が脳裏をちらついた。俗を生きるものにとって、言葉が言葉になるまえの声に立ち戻ることは容易なことではないが、それは大いなる肯定力となる。

各々の音のアクセントやつながりは、たんに言葉をしゃべっているのようにもきこえなくはないが、それだけといえないことは、はじめから感じた。どこかが通常のフリーベースソロと大きく違って聴こえて、2時間半ぶっ通して、楽に難なくこの音楽を聴けるのだ。なぜだろうとおもうとき、Henryさんがおそらく一つの蘇り、蘇生の肯定力の過程のなかで音を出しているからだろうと感じるのだ。強引にたとえるなら、インド思想の龍樹のそれに近いような最もラディカルな否定としての空と、その運動としての自発的肯定性、よみがえりがHenryさんの身体を通じて奏でられているようだ。Henryさんにはそのような意識はほとんどないのだろうが、そのことがかえって空を匂わせてくる。たとえばフリー期のコルトレーンとは趣がかなり異なる。俗から空へ飛翔するためのプロセスの音楽ではなく、空から俗に帰ってくるプロセスの音楽として聴こえる。

音の流れから音自体が歌いだせば即ブルースになる、そういう気配もときどきはあるし、ついに二枚目の最後の方ではいわゆるブルースのコード進行になる場面もあるのだが、ブルースを歌おうとしているわけではないようで、そもそも音に宿っているものがブルースそのものであるようだ。それはマクロ的には歴史や風土によって研磨された音の形であり、伝統が変化を求め、変化によってしかそれ自身を真に保ちつづけることがないような場所、つまりは伝統以前の何かに存するものかもしれない。それが音楽の「声」の感触を浮き立たせてくる。

「いまここ」というミクロでは、意識というものの前後、あるいは経験というものの最中に音があり、その音の流れの基底部から出来してきた形といえるだろうか。その基本的な原型がフリーのなかから再び呼び起こされているわけであるが、Henryさんの人生において一度捨てられた伝統や技術や意識が、この音楽の外側に聴こえてくる。音楽の内部はどうかといえば、その外側の身体から音がもどってくるように、その都度そこにつくられては消えていく。だから延々と続けられるのだろうか。捨てられた身体、空がなにかを語っている。その空なる身体を通じて、蘇りとしてのブルースの響きが根底の身体レベルにおいて聴こえてきたのだ。

空とは俗でもあり聖でもあるが、音楽にねらいや主張や他者を意図的に巻き込む先駆力はなく、その部分からは離れながらも、一瞬一瞬の俗なるものの聖化、そこからの俗への蘇り、そのプロセスが断続的に、かつ連続して淡々と、延々と行われているという言い方もできるだろう。それはいわゆるインプロヴィゼーションともニュアンスが違うようだ。そしてそのプロセスを支えている身体そのものが、空からの蘇りのなかにある。

否定も肯定もなく、そういう意識もない。だからといって思考がないということではない。もっと踏み込めば、経験的知、身体知の昇華された透明な音として響いてくる「真言」のような音に聴こえる。だから、寂静や沈黙ではなく「息」がむしろずっと激しくきこえてくる。人間的、あるいは動物的というよりも、光合成のような植物的なエネルギー生産のあり方の息だろうか。光合成とは決しておとなしく行われているわけではなく、動的生命のもたらした驚異的な生体システムである。Henryさんのこの演奏は、むかしの音楽よりはむしろ細い線で鳴っているように聴こえる音楽だが、息はおそらく深くなっているように感じる。人知では把握できないエネルギーが演奏の背後にみてとれるようだ。見た目の息の荒々しさと呼吸の深さは一致しないどころか反比例するだろう。

「意識」という人間的自然にとっては、言葉というものが支配的にはたらくことが大抵であろうが、この演奏では意識が言葉の通常の支配下にはない。あらかじめあるフォーマットからの逸脱やその否定ではなく、無からの創造でもなく、「空」という名付けえないダイナミックな「息の運動」そのものがそこにあり、健全で肯定的に聴こえる。それは所作であり、聴こえであって、匂いであり、触覚でもある。この録音は「音の文字」のようなものなのだろうか。空海のことが、僕の身体的記憶のなかから意識の明るみに出てくる。

何年かまえの年末に高野山を訪れたとき、朝早く起きて読経を聴いた。このお坊さんの声は暗唱した文字を読んでいるのではなく、声によって文字がそこに浮かび上がり、書き付けられてくるような感じがした。それは呼吸のあり方がいかなるべきかを僕の心に示すものだった。僕はベースで一時期この読経の音の記憶をなぞろうとしていた。と同時に、この経験がきっかけとなり空なるものの力を感じて、僕は「筋目書き」というページをつくって書き出し、気になっていた良寛を経ていったんは道元にたどりついた。自分なりに進めてはみたが、いまは無理に言葉にして書こうとするのをやめている。言葉を書いて何かを作ろうというより、音が意識のなかを渦巻いている感じで、よくいうなら創作の際の意識というものから、ものごとに付飾された意味の言葉を除こうとしているのかもしれない。その後に生まれるように出てくる言葉が、詩であると同時に、形は異なれど、Henryさんのこのアルバムのような音楽であることをどこかで期待しながら。だが、そのためには、言葉に声と息というものが非常に深く関わっていることを、再び身体に深く意識しなければならない。

空海の「声字実相義」のなかには「内声の文字」というものがでてくる。松岡正剛さんの解釈を借りれば、これは呼吸のリズムということで、十界にそなわる最大の影響をもっていて、内声とは生命あるものの声のエネルギーであり、文字とはいわゆる文字のことではなく、呼吸の特徴のことであるという。そしてこの「内声の文字」はバイオリズムとともに相対的なものだが、この相対性のうえにたたなければその先の「真言」もないという。

Henryさんのベースとヴァイオリンの延々たる循環するこの演奏は、生体エネルギーのバイオリズムともとれる。それは大きな意味ではこのような呼吸のリズムともとらえられるだろう。僕はこの演奏の循環を生死の輪廻や生きるための声とは感じなかった。死のための詩、生きるための詩、生存のための詩を求める意識の場所を求めるのとは別様に、延々とした深い呼吸のなかに感じられてくる呼吸の広がりのようなものが「真言」を生む。そういう非常に高度なあり方に近づくには、日本に生まれた僕の場合、身近な山や川の、風や草木の呼吸を嗅いでいかなければならないだろう。僕のなかのリズムと、環境のリズム、ひいては万象のリズムを感じ取ることは、空と海のあいだ、水平線の向こう側と僕の立ち位置を一致させる究極の宿題を背負うことでもあるのだ。