夢枯記006 Jean-François Jenny-Clark | Solo
contrabass solo/cd/harmonia mundi/2003
live in avignon/bass festival 1994
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean-François_Jenny-Clark (wikipedia)
なんだろう、この匂いは?。ピッチカートからはじかれる香しい匂いが、ベースアンプのレガート音の風にのって色変化する。
音の動き、フレーズは高低が激しいが、どちらかというと小振りのコンパクトな演奏に思える。確かピアノのビル・エバンスのよくやっていた「ナルディス」という曲のフレーズや、ブルース等々を自由に交えたソロが30分ほどつづく。時々弾かれる半音階ずれていく旋律や、高音のすばやいフレーズの走りが、どこかにただよっているあの匂いに変化を与えるようだ。ビル・エバンスと一時やっていたベーシスト、チャック・イスラエルの演奏も一瞬、頭をよぎったが、Jean-Françoisさんは、僕は名前は知らなかったけれど、ウィキペディアでひくと数多くのディスコグラフィーがあり、重要なベーシストであったようだ。ドン・チェリー、ガトー・バルビエリ、キース・ジャレット、スティーブ・レイシー等との共演もあり、どこかでひょっとするといままでに音を聴いたことがあるのかもしれない。またバール・フィリップスさんとの共演もあり、バールさんがこのアルバムに言葉をよせている。
乾燥したヨーロッパの空気を、涼しげな風がとおって人々に束の間の快楽を与えていて、聴衆も集中して演奏の行方を追っている気配が伝わってくる。フェスティバルということもあってか、終わると拍手がなり止まないほど聴衆も場を堪能していて、拍手はあたたかい。そのあとで、アンコールだろうか、「Rappel」と題された3分ほどの短い曲が披露される。聴衆の拍手が奏者をリラックスさせているのがわかったし、この曲の方が音がすんなりと素直に体に入ってきた。場が「のってくる」ほうが演奏も聴衆の耳心地もよくなるのは事実のようだ。3歳になる娘が聴衆の拍手をきき付けて部屋にやってきて、何度か短い2曲目をリクエストしては観客と一緒に拍手していたのが楽しかった。
その一方で、はじめからどこかで思っていたのは、このアルバムに限らず、演奏者と聴衆の耳心地の相互依存にも陥っていくとも限らない関係は、生死をかけた思想や生き方をかけた音楽における関係が発露される場とはどこか違って、肉体の切迫感のようなものをその空気に含有していない場所でこそ成り立つのかもしれない、これはソロだけれど、共演者や演奏する場によってJean-Françoisさんの演奏はどう変わるのかもっときいてみたいということだった。当然ではあるが、環境は音に作用していくということを感じる。音の推移とゆるやかなハプニングをインプットに、脳みその神経の信号が興奮したりそれを沈静化させたりしている。そんなふうに、いわば日常的でウィットにとんだ会話を楽しむように演奏を聴いているようだったから、どこかもの足りなさも正直あったけれど、ライブに居合わせれば違っていたのかもしれないとも感じていた。そんなことで、1曲目を聴いている途中から、フェスティバルのその場に身体をさしだすようにして、場に成り切ってみて聴きだすと、脳のその信号たちは、たとえば心臓の動きや足の裏の温度に、影響を与えだしてくる。
そうして聴いてみて、この演奏の襞は、演奏者の音楽に対する距離感、その奥ゆかしさのようなものにあるのではないかと感じた。世界への距離感が遠すぎずも近すぎずもなく、目立たない存在感がある香りを生む。香りは見えないが、どこからか感じられてくる。言葉にするのはむつかしいが、そんな奥ゆかしさをともなった音楽への親密な身体的態度が、あの匂いの香しさの正体だったのではないだろうか。
このアルバムは2003年に、1994年のライブ録音を亡きJean-Françoisさんに向けてリリースされたようだ。タバコの煙をはき、タバコを右手のくすり指と小指のあいだにはさみながらピッチカートをしているJean-Françoisさんの写真が内ジャケットにあるが、聴き終わってからこの写真をながめていると、味のある音の楽しみ方をされているようにみえてくる。タバコはいかにもうまそうで、鼻からはく息の煙が香り高く空気をくゆらしている。そして演奏家の眼は、演奏する場の環境をこえて、どこかを鋭く見つめている。その先に何がみえていたのだろう。
この録音からは、ライブに立ち会いたいと思わせる香しい匂いが、熟成されたワインのそれのように、いまここに芳醇にたちあがっている。