夢枯記005 Nobuyoshi Ino | 干反る音

contrabass solocd/馬運天/2005
http://contrebasse.haru.gs/


005inonobuyoshi

夜、闇のなかで一つのランプをつけて。

聖歌「ひせきにこもりて」がはじまると、空中に何かの木彫りの像が浮かぶ。次第にそのお顔が光のなかに明らかになる。木彫りの仏像は何かにしつらえられたり、とじこめられた展示枠のなかにはない。音に浮かび上がる微笑みは、人間の心そのものに何かを問いかけてくる。そして二つの旋律の間に顔をときどきのぞかせるのは、その像と自分のあいだに差し込んでくる光に反射した動くレンズ。それ以上立ち入るのを赦さない見えないガラスごしにあの仏像をみているのではないことは、そのはじまりから確かだった。動くレンズのむこうの、あの仏さまの微笑みは哀しみをもたたえている。レンズが心を照らして曲ごとにいろいろなこころの影がうつされては消えていく。湿っていた心を乾かすかのように光を集めていた凸レンズが、しだいにうすい凹レンズへと変化して光を分散させはじめると、乾いていた心がどこかから潤いだす。その先にきっと、時間も空間もないこの地の天があるのだろう、そういうゆめのなかで、かぼそく光の糸が結び、また光の糸がよれていく。僕はその心の糸をつたって、仲間だった死んだ人たちに会いにいく。最後に「ひせきにこもりて」がふたたび鳴りだしたとき、涙に潤う目がこの夢を目覚めさせるのだった。

アルバム最後の「ひせきにこもりて」は本当に美しい。それまでの音楽の過程が間違いなく聴く側の心を変化させていた。涙は音楽的体験によって突き動かされた心の一つの身体的なあらわれではないだろうか。時々お話を聞かせていただいたり、僕の小さな個展に光栄にも足を運んでくださった、井野さんのあたたかい心がなつかしくこの胸に響きだして、胸がいっぱいになる。

ふたたび乾いてきた目で、井野さんのライナーノートを読んだ。その最後にある言葉、涙に湿った顔が干しかえるように我が身も引き締まる。「 … 通りすがり的な創作でなく、己が潜在意識として、はっきりとした創意が持てるところまで、創る側も、音を研鑽してはじめて、意味ある可能性を含んだ出発点がそこに見出されるのではないでしょうか。」井野さんの眼差しと心のあたたかみは、ノート全体の文体にもあらわれていた。

コントラバスという巨大な木目のレンズが映し出す世界に響く音。そのなかに生きることの幸福を経験するアルバムだ。