夢枯記010 Daniel Studer | Details

contrabass solocdstu records1996
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とらえられる、あるいはとらえられたようで、決してとらえられない経験ー音楽のそういう場所について言葉で書くのはむつかしい。音が物質的であるようでいながら身体から離れようとしない。それはこの演奏が電気音ではないためというだけでもない。即興と構成のバランスをとる、あるいはどちらを選ぶか、あるいはどちらがよいのかということを思っても発見はないように感じられた。

端的には一つ一つの曲はある一つの線や何かの軌跡を描いていて、その線上にあるような印象を受ける。その線の描く放物線だったり楕円だったり、幾何学的なイメージがあって、ゆらぎや聴こえない音の体験よりも、聞こえてくる音と聴く側の意識をまずは直接的に対面させる。確かにジャケットにあるように直線上にいくつかの起伏が生じてくるようにも聴こえる。けれど、僕の興味の対象は直線ではなく、やはりその起伏の内側、それがいかに生ずるのかだった。

音という波動的な運動の即興的身体と、音楽構造という物質的な創作の骨格が、なにか空間がよじれて折れていきながら線をつくっていくように、それらが混在して聴こえてくる。僕自身の記憶とイメージの場で、ある補助線のようなものをひかなければ、何も発見することができなかった。

もちろんイメージでしかないけれど、その補助線は何かと思って聴いていると、平面の幾何学、ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学、曲面の幾何学へ、この音楽は両者のあいだの断面にあるような気がしてくる。無限な切断面があるけれど、非ユークリッド空間をコントラバス音楽で切断したときにあらわれる幾何学がユークリッド幾何学である、そういうような感覚が芽生えてくる。つまりは、この音楽自体が曲率のない空間から歪みのある空間への補助線でもあったということだ。補助線をひこうとした聴き手のなかに音楽が混入してきて音楽自体が補助線となってうごきだす。そういう体験も音楽のもつ一つの魔力だろうか。

音楽の初めと終わりで最も変化していたのは空間の曲率だったといえばいいだろうか。おそらく音楽の構成要素がどこかで隠されてあって、しかしコントラバスの低音の響きの歪みと即興的身体性によってその構成が歪みながら曲がっていく、その過程が音楽経験そのものだと再認識していく。設定があったとしてもそれは手がかりに過ぎず、計算されてできる平面上の音楽の場所からは遠く、はじめから曲面上にあるわけでもない。音の構成空間のあいだに漂ってくるこうした意識は一体何なのだろう。それがたとえ構造的な音楽であっても、そうでなくても、音楽というひとつの時間と空間の歪みを、聴く側がどのような切断面で切り取るか、その座標の選び方によって、経験される意識の時間が変化するということを、この演奏自体が示している。

ということは、この問題が演奏者にとってもあてはまるということかもしれない。音楽を聴くという経験と、音楽をいかに弾いているかを追体験するという経験とのあいだに生じているような何かがあって、その間にいかに聴く側の身体が入っていくか、その立つ地点と時間によって音楽はそのつど解体しながら、生き物のように運動していく。演奏技術が有る無しに関わらず、音を聴くことは、同時にそのとき音を弾いていることでもあるという感覚は大事にしたい。

平面あるいは立体的構成から逃れ逸脱するように想像され、発見されてきた曲面空間の一つの断片としての音楽は、20世紀に思い描いていた未来を想起させる。バッハを聴いても、それは演奏者にとっても聴者にとってもまさに今の音楽として聴こえるように、演奏者も聴者もすでに21世紀に突入してある。今世紀、音楽とはどういう大筋を描いていくのか。