夢枯記036 Joëlle Léandre (John Cage) | The Wonderful Widow of Eighteen Springs et al.

contrabass solo & duo with lê quan ninhcdmontaigne1995
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036joelleleandre

Yumegareki 036
It is well known that John Cage brought about a variety of “revolution” in the 20th century, particularly in the method of music, action and recognition; transcendence of modern sense of ego, approaches to the Eastern thoughts, such as the philosophy of Lao-tse and Chuang-tse, and Zen, coexistent and synchronic world, yearning for anarchism and utopian world. Also included is the music for the sake of nothingness, silence, incompletion, impossibility, chance, uncertainty, usefulness and process. The list goes on and on. What impressed me most in his concept of nothingness is his dry nature, deeply rooted in his intelligence. For Cage, things such as “nothingness,” “silence” and “anonymity” seem to be the existence of heavy substance, just like rocks in the garden of Ryoanji Temple. I also think that he regarded human intelligence as an important nutrient, while exercising strict self-discipline in the pursuit of the “anti-intellectual.” The dry texture is his vivid and sensory creativity or a light cheerful attribute that sticks to his creativity. It is fresh and cheerful, covering the contour of his delicate and sensitive skin. Still, he seems to encompass something more than his extraordinary intelligence. He might have wanted to move these heavy rocks of intelligence.  

Just like the way Cage dared to incorporate his dry nature into the music activities, if I could detach my ego or what Cage called “nothingness” or “anti-intelligence” from music and feel the resonance surrounding the shadow of Cage’s music body, a universe-like space would appear where the different species meet through the margin of my body which flexibly responds to different situations. Is it a space located deep inside of our body where each individual “existence” lives and revives in “relationship,” or a place where the unrelated are intertwined in an invisible manner or a space where unrelated relationship is perceived? And those who come down to this deep internal spring of existence, where everything is surrounded by the sound of the water surface at night, must be the gods of the ancient times. Their arrival would trigger dry nostalgia, creating “umbilical cords” among the people who penetrate to our body. Cage’s revolution was the dry texture of life, or nostalgia for the ancient times when “death” was closer to us. At the same time, it was an entry point to the future that drifts in the massive universe, just like the surface of the Mars means both the future and the ancient past of the earth for mankind.

Remembering Ryuanji Temple that I recently revisited, I listened several times to “RYOANJI” of this album. Japan is very humid which is quite opposite to the dry intellectual texture of Cage. But it is also the country that gave rise to the famous rock garden of Ryoanji, “Karesansui,” a unique representation of the “dry universe.” It is designed to accentuate the existence of water through the sense of dryness. But in the space of the dryness, you can feel the damp mosses grow on the garden rocks. As Daniel Charles mentioned in the article, this micro-organic movement makes you feel that even the macro substances, the heavy stable rocks, could move. This music seems to represent Cage’s novel viewpoint; transforming the heavy presence of Ryuanji rocks with a long history and culture into a relationship of motion of all things that are present in this moment. I am not sure whether Cage had gone through a mental process of this dramatic transformation, from a humid landscape to a seemingly dry-up world. It appears that Cage’s original dry nature of intelligence matched with the moisture of the mosses. Moss is similar to the life of mushroom. The thirst of Cage’s intelligence might have been complemented and moistened by the living body of mushroom. Cage might have regarded the dry presence of this rock garden as a space of movements of countless micro sounds surrounding the garden. He might have transcribed these invisible movements of water in “karesansui” into sound.
 
The sound of contrabass played by Joëlle Léandre is like mosses and mushrooms that live in moisture groveling on the ground. Percussion of Lê Quan Ninh accentuates it like the intelligence of Cage. Mosses and rocks, dry and moist, micro and macro, existence and relationship, reality and dream, and life and death. I feel I am falling into what Cage called “intersection of dualistic thinking.” The East-West border gets blurry and Joel’s voice began to flow drily and magically, crossing and floating at the midpoint. If the gods come down to the space where the concept of principal and auxiliary is eliminated, the rock garden could embrace and enjoy this music. It will take the “wisdom” of music to truly break ourselves from the conflicting, dog-eat-dog relationship.



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ひと月ほど前、写真フェスティバルをみに京都へ行ったとき、朝一番で龍安寺を訪れた。今回はあらかじめコレクションの棚でジョン・ケージ氏(以下ケージ)の『RYOANJI』の入っているこのアルバムをみつけて、まずは龍安寺の石庭をいま一度みてから聴いてみようとおもっていたのだが、多忙のため連休明けからストレス性の下痢や腰痛に悩まされるなどで、残念なことに聴くまでにかなり時が経ってしまった。

ジョエルさんは様々な重要な音楽家との共演や親交も豊富で、現代において欠くことのできないベーシストという感じは以前からどことなくあった。このジョエルさんのアルバムは5曲のうち4曲がケージによるもの、最後の一曲がジョエルさんのケージへのオマージュらしき曲と思われる。この『RYOANJI』(1984)はコントラバス、ヴォイス、パーカッションで演奏されるヴァージョンで、いくつかのヴァージョンがあるようだ。

パーカッションを担当されているル・クァン・ニンさんは、僕のベースの師である齋藤徹さんのミッシェル・ドネダさんとのトリオツアー移動中、数年前に我が家に光栄にもご一泊いただいた。非常に知性的でありながら気さくな方で感銘を受けた。ニンさんは、ケージに多大な関心を寄せておられるように見受けられた。ケージ生誕百年の催しへの準備で、鋭い眼で集中してケージ作品に早朝からとりかかっておられたのが僕の記憶に強く残っている。ケージにも人間臭さと鋭敏な感覚、知性の同居したおおらかな雰囲気が流れていたのだろうか。

ケージについて書き出すと文字通り切りがなくなるだろう。僕とケージとのはじめての出会いは、ダニエル・シャルル氏による『小鳥たちのために』というケージへのインタビュー本を買ったときで、大学に入って間もないころだった。一度だけ大学でケージについてのクラスをみつけて、数人の大学院生に交じって岩佐鉄男先生の大学院の講義に、あからさまだったけれど“もぐって”聴講したことがあった。今思うとよくあんな勇気があったと思うし、難しくて何をいっているのかほとんどついていけなかったが、僕の世代にとっては脳みそが十二分に刺激されて影響されたし一種のカルチャーショックだった。

それでもそのころの僕は、ケージに対して正直どこかに身体的な違和感がつきまとって、どこかでケージから一旦はなれたけれど、社会の因果律とはまるで反対のことを発想する想像力をもつことがいかに重要であるか、そのことを知る端緒が僕にとってのケージとのはじめての出会いだったのかもしれない。今でも怒涛のごとくふってかかってくる現実ストレスに対応するための生活に有用な教えである。

今回あらためてまたいくつかケージの書いた本や彼についての本を読んでみたが、とても勉強になる。ケージの非常に繊細な感性と耳、そして自由な発想に基づいて、あたかもある自由なユートピアを志向するかのように展開していくようにみえる思考と行為の軌跡はスリリングでさえある。特にダニエル・シャルル氏の書いた岩佐鉄男氏の邦訳による『ジョン・ケージ』という本は、高度にして難解だが、非常に優れた論考だと感じた。そのなかの『音楽と無ー支配』という章はケージの本質を見事についている分析であるようにも思った。最近の白石美雪氏による『ジョン・ケージ』も非常にためになった。ケージは亡くなられてしまったが、少しでも時代を共有した僕は好運だと思う。できればケージという人に会ってケージスマイルをみてみたかった。

ケージが示した多くの音楽的方法や世界認識の一つにあるように、耳は主客を超えた沈黙のうちに開かれることによって、多発的な出来事を同時に感受する。人間にとっての耳は外部の現実と内部の空想の接点にある。耳は外部の音だけではなく、内部の鼓動をも響かせる。耳は人間にとってのみならず人間社会にとっても非常に大事な器官であり、想像力と現実のすべてを受容したり、想像の暴走と現実の暴走に対し、逆に待ったをかけることもできるのかもしれない。

あるいは、たとえば個性は一個人からは生まれない。主客を消失させるように、沈黙を介して人間の外側から人間自身をとらえつつ、人間の内部に人間の外部にあるものを聴くという態度、自己主張や自己表現、ひいては自分を縛る名前というものから離れる無名性や匿名性といったものは、自我に目覚め呪縛されもしてきた近代への反動的な時代的転回期にとって、今現在においても重要な考え方の一つであるだろう。ケージによる世界認識によって大きく拡大された音楽のあり方に体現されているように感じる。空想と自由な発想力は、現実をひっぱってそのベクトルを変える原動力になりうる。

プロセス重視ということにしても、自己を律して自我を無に帰するプロセスは、古今東西の多様な教えから抽出されたケージならではのものだろう。現実社会に生きていくことの重みから本当に解放されるに至る軽やかなプロセスを、直接的な創作的行為として行動したそのプロセスこそがケージという現象だったのだと思う。

自我を超えようとすることは、所有よりも離脱、自分という意識、その「名」からはなれようとしていくことでもあるが、そうすればするほどに、かえって無名という名が浮き立ってみえてくる。エマニュエル・レヴィナスは、芸術家は《影のために獲物をのがす》と言ったという。たとえば「雪が降る」、そのありのままこそが無名な出来事でもある。身にしみついた言葉の限定から作為的に離れようとすることによって、かえって無は新たな強い光のなかに隠れていくこともあるだろう。新しい知をつかまえることよりも、知とそうでないものとの間に立って、影にただよう無に触れること。

ケージ的な無のなかでひときわ輝いてみえてくるものは、偶然性による行為や出来事、差別のない世界よりもむしろ、一面においてはケージの感覚的知性なのではないだろうか。ケージはフロイトのようには無意識を知の枠の内部で掘り起こそうとはしなかったようだ。それはやはり時代の要請した「非ー知」という知の追求と、その知を起点として発動される行為だったように思われる。このような意味では、「無/無名性」、「沈黙/サイレンス」というような言葉はケージの人生にとって、重たい知の石としてあったと感じる。

だが、その石の重みがなかったならケージはケージではなかっただろうし、ケージがケージであることこそがケージをケージでなくさせることでもあっただろう。その際どい知と「非ー知」の間の領域に揺れ動きながらケージはあの重たい石をともかく動かし、さらにこの石の重みから離れようとした。その動きは、「非ー知」を求めつつも、人間の知性というものを重要な栄養としていたように僕には感じられるし、「非ー知」を自らに課して律し貫いていたように思う。その知を介した徹底されたプロセスと行為に、僕は深い敬意を表したい。

それでも、アカデミズムをも巻き込んだケージは、その類希なる知性だけにおさまり切らない何かを内包していたようだ。ケージの行為は認識の革命でもあり、近代的自我からの脱出の試みでもあったろうが、キノコへのミクロな関わりから想像される視野を深く下ろして拡張すれば、人間を含む環境問題をこえてすでに始まっているマクロな宇宙時代への小さな警笛でもあったかもしれないし、未来への積極的予見でもあったかもしれない。

異種混成のヒエラルキーのない柔軟な状況への対応は、アナーキズムへの期待をさらに超えて、認識の転換が身体へなじみさえすれば、ケージのあの「実験的な」音楽は、人間内部の精神的始原への渇望や強い郷愁さえをもはらんでもくるものだろう。それは神話のような世界にもつながりうる音楽の幅の広さを呈しているようにさえみえる。そうであれば、ニンさんが僕の目の前で鋭い眼光でケージ作品に取りかかっていたように、ケージの音楽は決してぞんざいには扱うことはできないだろう。古代の神々のいずれかの怒りに触れるかもしれないからだ。

近代的な自我の超克や無や沈黙を介した東洋思想への接近、共生的で共時的な世界、あるいは無政府状態やユートピア的世界への憧れ、沈黙、未完成、偶然や不確定性、有用性、等々のケージ論はそれとして、ケージの思想の一つ一つについて感じるところや考えることはあるにせよ、僕が個人的に強い実感として感じるのは、ケージのみずみずしい聴覚的な想像力と、その発想にへばりついているようなある種の軽やかさ、そして明るさのようなものであり、これはケージの知性の独特な「乾き」といってもよいものかもしれない。その知性はロゴスの乾きでもなく、みずみずしく明朗な感性の皮膜を縁どっているようにみえる。

この知性の乾きは、自己反復する無意識やイメージの病的な悪夢には陥ることを必定回避するように思えるし、ケージの音楽の同時多発的な出来事をはらむ偶然性も、泥臭い人間的自我からはなれた本来の自然の艶やかな乾きを取り戻し、社会的現実にそれを取り込んで確保するためにあったかのようにみえる。自我に耽溺しながらもがくことが不可能なあり方を意図的にしつらえ、重たかった石の呪縛を回避しながら、そこから飛躍したら何がみえてくるのか。人間が手放すことのできない世界への強い根底的な人間的希求が、ケージのなかにもあったはずである。

ケージのもつ繊細な耳と乾いた精神と近接する場所、だが感覚を研澄まして聴けばそれとは微妙に異なる場所にたとえば禅というものが位置し、そのずれのなかにこそ生きたケージ自身の身体性があって、ケージという人の希求した場所が垣間みえるように今は思う。そのずれの内側にこそ誰のものでもない、だからこそケージ的な世界と沈黙が開いてくるようだ。当初抱いたケージへの違和感のなかにこそ僕にとってのケージがいたのだと思う。

無というものへのプロセスの何とも言えないすれ違い、いわばケージの知の影や余白にふと感じられてくるような無の場所から、観たことも聴いたこともない宇宙がのぞかれる。総じてその奇妙で、時に鮮烈にすぎるケージ的世界に僕は深い場所でひきつけられてくるようである。ケージもたぶんそれをわかっていた。ケージの音には様々な素材が使用されるが、そうした聴き方を各々の音の余白において要請してくる。この点を感じだすと舌を巻いてしまう他はない。よく考えられているのだと思う。

影の余韻を含んだケージ的身体の場所に降りて、いったん深く無を感じてみるならば、つまるところケージの行為と思想、音楽的認識の革命は否定する対象にもなりえないし、肯定する対象にもなりえない。ケージの場合、「偽ケージ」はありえても、「反ケージ」ということはなかなかありえないのかもしれない。「反ケージ」にも「非ー知」としての知に対する知が必要だからだ。知が身体の一部であるなら、知を本当に拒否することは少なくとも僕には難しい。

ケージはバッハのように時代の<今>を生きていくだろう。ケージのいわば見かけを飾る「非ー知」による知の思想よりも、人間の関係性の隙間にそっとささやかれる名もない、さやさやとした音の声、その響きに感じられる古くて新しい深い乾き、そこがケージの魅力の普遍的側面なのだと感じる。星図をもとにケージが不可能性を追求しつつ作曲したという、Irvine Arditt氏によるヴァイオリンのための『フリーマン・エチュード』などを聴くと(Irvineさんには可能だったようだし、ベースでもケージが信頼していたというステファノ・スコダニビオさんが演奏している驚異的なアルバム『Dreams』がある)、そういう普遍を通じた古代の神話的な感覚にすら触れる感じがして、聴いているといつの間にか深い郷愁にひたされることがある。

<私>から音楽が十分にはなれたとき、状況に柔軟に対応する身体の余白が生まれ、異種が交わる宇宙的な場所が開ける。それは個々の「存在」が「関係性」のなかに生きて息を吹き返す場所かもしれない。かつての僕は「存在」ばかりに眼を奪われていた。関係しないもの同士が見えない場所で関係するような場所。無関係という関係が感受される深い身体の場所。各々の内部の深い泉、夜の水面のような音に満たされたあの深遠な場所に立ち降りてくるものこそ、古代の神々たちではないか。その到来こそが乾いた郷愁となってこの内蔵にひたひたと押し寄せてくる。音楽における匿名性、ケージの革命は、太古のノスタルジアへの永遠なる乾きであり、広大な宇宙を漂流する未来への入り口だったのではないか。火星の地表が人間にとっての未来であると同時に地球の太古でもあるように。

不可能性を追求することは人間の感覚を宇宙と大地のあいだに開くことだ。<私>のない世界では、不可能を可能にし、<私>の居場所を拡大するための夢を実現してきた幾多のテクノロジーでさえも、もはや人間の欲望、自己表現、自己実現のためにもない。ただただ現実という全きノイズと沈黙のなかで、太古から時間を呼び寄せ、未来へと空間を切り開いていくという行為に、肥大化し現実から遊離して環境を蝕むテクノロジーの悪夢を根底的に変質させる可能性が残されてあるだろうか。

さて、龍安寺を生んだこの日本はケージの知性の感触とは裏腹に湿潤している。長谷川等伯の傑作「松林屏風図」をみると明らかに独特の湿度が画面を支配していて、この日本の独特な湿度、あの雨上がりの見事な霧のようなぼけや霞なしには描けなかったものだろうが、この湿り気が湿り気として、画家の意図を含めてあまりにも自然に描かれているが故に、十分に潤いつつも非常に乾いてみえてくる。詩情だけでも写実だけでもない。やはり一つの心の至った場所、悟りの境地のようなものが描かれているようにうつる。例えば能や禅が武士にとって非常に重要な儀式であり、取り入れるべき生き方の過程であったように、風土的にも湿り気を帯びた精神や、心の葛藤を潔く乾いた空へと払拭し、飛翔させるかのごとくに武士道がある、そういうふうにすら感じることもある。

等伯にもみられるそのような精神の乾いた覚悟は、ケージの思想、重たい石を動かす強靭かつ軽やかな意志と近似してくる。ケージの知性は知として無意味なほどに自らの知性に忠実だからこそ、風土や創作プロセスは異なっていても、その音楽はついには等伯の絵と同じような乾きの質感になるのかもしれない。耳が受容し今ここに聴かれてくる世界と、眼を研澄ましながら今ここに観られている世界は、最後にはこの宇宙的な乾き、ノスタルジアにおいて次元を一にすることが可能なのではないのだろうか。さらにその向こう側には何があるのか。等伯もケージもそういう宇宙的な未来を僕に予感させる。

龍安寺は十回以上は訪れたが、そこにもこうした乾いた宇宙がある。本当かどうか、十五ある石は一つだけ見えないように配置されているというのはよく聞く話だし、このあまりにも有名な石庭については数多くの研究があるようだ。ケージは、石庭は長く観ても短く観ても印象は変わらないといい、ダニエル・シャルル氏の非常に興味深い龍安寺についての論文などを読んでいたら、石庭の十五の石の位置は何処においてあっても良かったはずで、石の関係性が計算されているとは思えない。砂の空無は岩が何処にあろうと支えになるようなものではないだろうか、といったという。

僕個人の経験では、時間をかけずにみた庭の印象ほど後々に鮮やかに記憶されるようだが、自分自身をみつめ、あたりの音を受容するまでにはその場に長く座ることが必要のようだ。石庭は自己の心を投影する場所でもあって、心を無に帰しながら空につなぎ止める契機としての場所が石庭であるなら、少なくとも自己を新しく無垢にみつめなおすための風土を浄化させた乾きこそが、石庭の根底に十全に宿されていなければならないだろう。

今回訪れた際は石庭の鑑賞にはもはやあきたのか、僕は修行の場として初めてこの石庭を捉えることができたようだった。山水の湿潤した世界が一挙に枯れてみえてくるプロセスは、乾きであり、冷えでもある。湿り気から乾きへと至るプロセスがケージにあったかどうかは今ははっきりとみえない。しかし、シャルル氏の論のなかで興味深いのは石庭の石に生える「苔」の位置づけである。僕なりに解釈すれば、この苔の視点に立てば、マクロに排除されたミクロではなく、ミクロの多元性がマクロを動的に形成し位置づけてくる。今という時間のなかで静止した石という重い存在が動き出す。あの枯山水のなかで唯一湿潤している自然体の動きを担っているのは石を覆う苔かもしれない。苔の感触はケージにおいてはキノコの生命のようなものだったのではないだろうか。ケージの知性の乾きは、キノコという生体で補完されながら潤っていたのかもしれない。

等伯は人生をかけて湿った墨が絵の内側に乾いて定着されるのを待っただろう。対してケージはあらかじめ乾いた絵具で描けない絵を描こうとしたのかもしれない。分析的なマクロ的鑑賞は、おそらくはじめからなかった。みえない絵が誰の手にもよらずそこに描かれるためには、ケージにとって場に充満するありのままの音が必要であった。この石庭の醸し出している乾きは、その場にある無数の動く音としてみえたはずである。

湿潤された精神風土から生じ、京都のある寺の定点に確固として位置づけられた石は、土地の歴史を背負っている。その龍安寺の石たちの存在の重みが、覆われる湿潤したみえない苔の運動によってにわかに相対化されてくる。それは歴史や風土という存在の重みから、今ここのあらゆる動く関係性へと視点の変換をもたらすだろう。ケージが龍安寺の十五ある石を想像のなかで自由に動かすことができたのは、石庭へのこうした眼差しがあったためではないか。石庭もこの斬新な眼差しを否定するはずもない。なぜなら湿り気と乾き、その主客の滅したずれの隙間の位相にこそ、神々は舞い降りてくるからだ。

龍安寺の記憶を辿りながら何回か繰り返し『RYOANJI』を聴いた。このアルバムにおける『RYOANJI』では、どちらかといえば地面に這いつくばるようにひたひたと生息する苔やキノコのように湿潤しながらうねるジョエルさんのコントラバスの音に、ニンさんのケージの知性を彷彿とさせるパーカッションの乾きが、喝を入れるように入る。苔と岩。ミクロとマクロ。存在と関係性。ケージの言う《二元論的思考の折り目》のただ中に僕は入り込んでいくようだ。主客の、そして東西の線はぼやけ、その折り目に交差し浮遊するヴォイスが神秘的に聴こえだしてくる。この経験のプロセスに、龍安寺でケージが観た音の感触が入り込んでいると思うと、次回は石庭の石に本当に苔があるかを確かめてみたくなる。ちょうど週末に学会で京都に行くので、訪れることができればいい。

いま、僕はケージという夜通しのこの長い夢から現実にかえらなければならないのだろうか。そうは思わなくてよいはずだ。何よりケージをいま聴いたばかりなのだから。社会的現実と人間の想像力(夢)という二つの項は人間の根本的な対立した矛盾である。現実を超え出るような人間の想像力や発想が現実を先見する可能性を孕んでいる一方で、たとえば政治的幻想によって現実に生じた悪夢は、時に現実的犠牲が払われながら、現実の力によってこそひきずりおろされてきた。二項の食らいあう関係から真に離脱していくためには、やはり音楽という知恵が必要なのかもしれない。

常に新しい自分を発見しながら、現在の社会において仕事を続けていくことは容易ではない。仕事はたとえ嫌でもしなければならない責務に他ならないが、現実の範囲内にあわせるように想像力を抑制することは不健全でさえある。想像力を失ったまま惰性的にその責務に従事することの方がより恐ろしい。自己の抱いているイメージがただ現在の現実社会の投影でしかないものなら、想像力は死んだように自己内部に埋没し、イメージのゴミ溜が湿った腐臭を放つ。ケージのように、人間は自由な想像力を手放してはならないし、夢を手放すことはできないのだ。